「マリッジブルーで診療所泊まりするなんて、困った人、ですね」
医師にしては若い少女__骸は、空気の入れ替えと開けた窓から入ってくる風に栗色の髪を靡かせて言った。
「相手、素敵な人じゃない?美人で頭も良くて、あなたにぴったり。きっと幸せになれますよ」
ね、クレイさん。と、元気付けるように言うその仕草は、酷く他人行儀に感じた。だって、俺と骸は、つい最近出会ったばかりの他人ではないからだ。彼女はもっと良い意味で幼くて、落ち着きがなくて、敬語が苦手なはずで。手ひとつ遊ばせないその落ち着いた仕草に、整った敬語に、酷い違和感を覚えた。
「今日は何か予定が?」
俺は首を振った。動くたびに映すものを変える宇宙と深海を混ぜたような蒼い瞳を、自然と追ってしまっているのに気がついて、慌てて目を逸らす。
「じゃあ、十五分︙もしくは三十分。とにかく、雨が降る前に窓を閉めて貰えますか?」
「え、天気予報では晴れだと︙︙」
「雨の匂いがする、ん、です︙︙」
ほんの少しぎこちなく敬語が崩れる。
わかりましたと彼女に合わせて敬語で返せば、自分は出かけてくる旨と、下の階には彼女の叔父で同じく医者のSpicaがいるため何かあったら彼に聞くように言われた。
できれば丸々一週間、運が良ければニ週間。ここで療養できたらと、思う。興味の無い人間と結婚をする気はさらさら無いが、こればかりは仕方ない。何でも家の繁栄の為だそうで、半年前、全く知りもしない女性と結婚することが両家で決まった。結婚式は来月の頭︙二週間と二日後に執り行われるという事だ。
そうこう考えている内にペトリコール__雨の降り出す匂いが、俺にも分かるほどに強くなって、ぽつりぽつりと降り出した。
俺は窓を閉めて、お茶を貰いに階下に降りた。
「あ、クレイ、居たのか。てっきり骸と出かけたのかと︙︙」
書類の山に囲まれた、若く見える男__Spicaが顔を覗かせた。
「いや、骸は一人で出かけたよ、随分と他人行儀だった」
「はは、そうか。半年も経ってないだろ?忘れてるわけはないんだがな︙︙」
彼女は忘れっぽいからと、大きく伸びをすると、のろのろと猫背のまま玄関の方へ歩いて行った。
「出かけるのか?」
「ん?あぁ、傘を忘れたって。本当におっちょこちょいだよな、雨が降るって騒いでたのは骸だってのに」
珈琲も買いに行かなきゃだなぁと彼がひとりごちて出ていく、その背中を眺めていた。
「患者ほったらかして外出かよ︙︙」
そう呆れて呟いたのは、誰も聞いていない、ただの独り言だった。
彼女は真新しいカーテンと花、そして何か紙袋を抱えて帰ってきた。
「可愛いでしょ、この部屋はちょっと殺風景だから、買ってきたんです」
「この花は?」
「んんと︙︙スターチス。」
爽やかなアイスグレーと青いストライプの入ったカーテンを取り付けながら、彼女はそう答えた。
「この窓辺に飾るの、クレイもこんな殺風景な部屋に居たら気が滅入っちゃうでしょ?」
作業に夢中なのか、すっかり砕けた口調に懐かしさを感じる。
「骸、手伝うよ。高いところ、大変だろう?花を飾ってくれないか?」
「え︙」
彼女はハッと顔をこちらに向けて、それから小さく頷いた。
彼女は背が低い。俺が高すぎるのかもしれないが。背伸びをしながらカーテンを取り付けているのに気がついたのだ。
「︙︙長さ、間違えちゃったみたい、です︙︙」
かけ終えたカーテンは、ほんの少し丈足らずで、ぴっちりと閉めても下から光が漏れ出てくる。
「骸が選んだんだから、これで良い」
何より、夜暗くないのは助かるのだ。真っ暗だと不安になってしまって眠れないから。
「あとは、これ。あなたに、」
手のひらの半分の大きさの小瓶を手渡された。
「これは?」
「幸せなこと︙嬉しいことがあった時に、瓶に金平糖を一粒ずつ入れて行ってください。これがあなたの為に出来る、治療」
そうすると楽しいことがあったって目に見えるから、と彼女は付け足した。
「瓶が一杯になったら?」
「瓶がいっぱいになるほど幸せだって感じられるなら、良い頃合いだと思うの。だから、そしたら︙︙もう、ここに来なくても、平気ですよ。」
金平糖は悲しくなった時に1個ずつ食べる。それで空っぽになったらまた入れ直してって、その繰り返し。
「金平糖はベッドサイドの引き出しに入れておきました。」
「そうか、」
俺は徐に引き出しを開けて、金平糖を取り出した。そして青い1粒を手に持った瓶に落とし込んだ。
「これで良い?」
彼女は曖昧に頷いた。
次の日の朝食はぐちゃぐちゃの目玉焼きだった。俺のはまだ綺麗な方で、隣の骸のはもっとぐちゃぐちゃだった。彼女は恥ずかしそうに、申し訳なさそうに、俯いた。
「失敗、しちゃって︙︙」
「腹に入れば同じだから、気にすんな。そのうち上手くなるさ。」
Spicaはそれに満たないような慰めを彼女に贈った。
ここまでで、なぜ医者と患者が食事を共にしているのかと言う疑問を持った人もいるだろうが、俺と骸とSpicaは顔見知り︙︙それ以上の関係であったし、この診療所には俺しか患者は居ないので問題はないのだ。
俺はまず目玉焼きを半分に割った。俺がそれを好きなのを覚えていてくれたのかもしれない。半熟にしたかったのかは定かでは無いが、中から少しだけだがとろりとした黄身が溢れた。見た目は良いとは言えなかったが、味は丁度よかった。
「美味しいよ、ありがとう」
そう言うと、彼女が目を輝かせたのを見て、こっちまで嬉しくなった。
瓶の中の金平糖が、ひとつ増えた。
時刻は三時間後の、森の中。一枚の大きな扉をノックした。出てきたのはブロンドで碧眼の女性だ。
「あら、いらっしゃいMr.マリッジブルー。」
彼女は揶揄うように言った。
「骸、話したのか︙︙」
「えぇ、あの子、それはもう楽しそうに話していたわ。どうぞ、上がって。」
彼女は骸と俺の共通の友人で、名をメアリーと言う、森に住む変わり者だ。
彼女は爽やかなアイスミントティーとそれに見合う茶菓子を出した。
「それで?本当は骸のことが好きなのに、結婚は全く興味のない相手としなきゃいけないって病んじゃったの?」
からころと音を立てながらマドラーをかき混ぜてこれまた揶揄うように言った。
「うるさいな、病んでないし、誰だってショックにはなるだろう」
「今時政略結婚なんて珍しい、滅多にないことよ?」
本当にこの人はああ言えばこう言う。慰めの言葉ひとつぐらいくれたって良いじゃあないか。
「あぁ、それで、どう?金平糖は順調に溜まっているかしら。」
貴方のことだからわざとやらなかったりしてそうだけど、とくすくすと彼女は笑っている。
「一応溜まってるよ︙︙だが、何故それを?」
「名案でしょう?私が考えたの。そうすれば貴方たち、少しは長く一緒にいられるでしょう?」
なるほど、悔しいが俺が彼女を頼る所以はここにある。彼女は字の読み書きができる程度の学しかないが、発想力は骸に劣らない。観察眼もきれているし、吸収力も凄まじい。訳あって学校に通えなかった彼女が、ちゃんと他の子供と同じように勉強ができる環境を与えられていたならば、このようなひん曲がった性格にはなっていなかったんだろうなと皮肉を込めて思案する。
彼女は得意げにミントティーを啜った。
「だって、彼女が他の男にとられたら、めんどくさいじゃない?」
「確かに、それは困るな」
「貴方がめんどくさいって話よ。」
私も誰か知らないどこぞの馬の骨に可愛いお友達を渡すわけにはいかないけど、と続けた彼女に、自分だってめんどくさい拗らせ方をする癖にと心の中でぼやいた。
「とにかく、2人できちんと話し合うことね、お互いの気持ちも、これからどうするのかも。」
半年ほど前のことだ。骸は俺の恋人であったが、政略結婚の話を突然父に聞かされて引き離された。大した別れも出来ずに、一夜にして。俺はたしかに父の職を継ぐ長男坊であるし、仕方のないことなのかも知れないと割り切ってはいたが、式を目前に控えたとき、情けなくも納得のいかない自分に気が付いたのだ。だから過度のマリッジブルーと言うことにして、しばらくSpicaの診療所に泊まることになった。この事実を知らないのは、メアリーを除き、骸だけだ。
「あぁ、そうだ。あの子、花を飾るって言ってたわ。何の花にしたのかしら?」
「スターチス、だったか。花はよく分からないが、綺麗だったよ。」
骸が話していたのを覚えている。あの時、どんな表情をしていたっけか。
「スターチス︙︙なるほどね。じゃあ尚更話し合いは早い方がいいわ。」
「何故?」
彼女は揶揄う口調をやめたが、どこか含みを持たせるように言った。
「スターチスは、夏を越せないのよ。」
氷だけになったグラスは汗をかいていた。
◆◆◆
三十八度二分。
やってしまった。身体は重いし、頭痛が酷い。昨日の買い物の帰りに、集中豪雨__俗に言うゲリラ豪雨に見舞われて、携帯を忘れ、あろうことか近くの食品店から走って帰ってきたのだ。十分ほどで止むのだから大人しく待てば良かったと心底後悔した。仕方なく重たい身を起こして、階下におり、ダイニングテーブルで潰れているSpicaを起こした。熱を出して今日は患者__クレイの担当をすることは難しいと伝えたのと、クレイがダイニングに入ってきたのはほぼ同時だった。
「どうした?」
「や、えっと、なんにも」
嘘をついた。
仮にも医者として、熱を移すようなことはしたくなかったし、何より私を気にかけてほしくなかった。だって、彼には婚約者がいるから。役得と言われればそうかも知れないけれど、彼に不埒な人になってほしくなかった。
せっかく嘘をついたのに、空気を読まずにSpicaが割って言った。
「熱だってよ、俺は二日後研究発表があるから診てやれるほどの時間が確保できるか分からない。クレイ、暇ならすこし面倒をみてやってくれないか?」
「ん?あぁ︙︙わかった、」
私が待って、と言う前にクレイが承諾しちゃったせいで、私は大人しく従う他なかった。彼は冷蔵庫を覗いて、何もないなと呟く。
「何なら食べられそうだ?お粥?うどんぐらいなら食べられる?」
彼の視線が指すのはほとんど空っぽの冷蔵庫のままだ。
「︙︙おかゆ、なら」
「米も残り少ししかないからやっぱり買ってくるよ、何か他に食べたいもの、ある?」
私は首を振った。彼は分かったと相槌を打った。彼が玄関に出て、私の髪を子供にそうするみたいに撫でた。
「しばらくかかるから、安静にしていろよ。辛かったら、寝てても構わないから。」
「︙︙うん。」
玄関の戸が閉まった後、Spicaの方に向き直った。
「余計なこと、しないでよ︙︙」
「さぁ?何のことかな。忙しくて何も聞いてなかったよ。」
白々しい!
そう抗議しようにも体力がなくて、大人しく自室に戻った。ベッドに潜り込むと途端に眠気が襲ってきて、夢に堕ちるのはすぐだった。
◆◆◆
「ん︙︙︙︙」
彼女がゆっくりと身を起こした。目を擦りながら一瞬目が合って、彼女がハッとして、それから状況を思い出したように大人しくなった。
「食べれそう?」
「︙︙食べれるよ、自分で、」
俺はそう言われて、無意識に食べさせようとスプーンを構えていた手に気がついてぎこちなく元の位置に戻した。結局、彼女が以前熱を出した時に所望したプリンやアイスも買ってきてしまったから、本当に自分はダメな奴だと心の中で自嘲した。彼女が小さく口を開けて、少しずつお粥を運んで行くのを見ていることしかできないのがもどかしかった。
「ちゃんと、おいしいよ。」
彼女が、黙りこくっていた俺を気遣ったのか呟いた。
「アイスも買ってある。食べられそう?」
彼女はそれに反応して顔を上げた。心なしかいつもより瞳がキラキラと輝いていた。
「ほんと?」
「パキッて割って食べるやつ。それとも、プリンの方が良い?」
「︙︙どっちもたべたい。」
予想していなかった強欲さに思わず笑ってしまった。そう言えば前もそうだったかもしれない。
「わかった、とってくるよ。」
彼女は嬉しそうにしていた。もし彼女が犬であったなら、尻尾を振っていたに違いない。
ダイニングで相変わらず沢山のレポートに囲まれたSpicaが大丈夫かと尋ねた。俺は頷いて、アイスとプリンを手に取った。彼からの視線を感じて、いるかを尋ねたが、彼は珍しいものでも見るような面持ちで、今は要らないと首を振った。
彼女の部屋に寄る前に、瓶を取り出して金平糖を放り込んだ。手の中の小瓶には青い金平糖ばかりが半分ほど入っている。彼女といたらあっという間に溜まってしまいそうだった。
「クレイ、今日はおだやかだね。」
プリンを食べ切った後のスプーンを咥えながら彼女が不意にそう呟いた。熱に浮かれているのか、どこか虚ろとしていて幼い感じがした。俺に向けて話しているような、半ば独り言のような。
「いつも、何かに追われてるみたいに、どこか焦ってたから。」
自分じゃ分からなかったが、そうなのだろうか。少なくとも今は、彼女の方がずっと焦っているような気がした。
「︙︙ずっとここにいてくれればいいのに、って、思うときが、あるの、」
「うん、」
「も、どこにも、いかないでほしいって。だめってわかってるけど、思っちゃうの、」
「︙︙うん。」
「おこらないで︙︙花が、花が枯れたらちゃんと、クレイにおめでとうって、言えるようにするから、だから、」
尻すぼんで行くのを聞いているのが居た堪れなくなって、その先を決して言わせまいとした。
「そろそろ、寝ような。」
彼女がとうとうボロボロと涙をこぼすのを拭ってやった。熱が下がって正気に戻った彼女が、今日のことを覚えていないといいと思った。きっと、彼女は、また自分を責めるのだろう。そうすることを俺は望まなかったし、Spicaもまた望まないのだろう。俺のせいでこんな思いをさせているのに何もできない自分に嫌気がさした。
翌朝、骸の熱はすっかり下がって、ダイニングで潰れていたSpicaを起こそうと格闘していた。
「あ、おはようございます。ごめんなさい、まだ珈琲しか準備してなくって︙︙」
「おはよう、心配だから手伝うよ、そいつ邪魔だし起こすんだろう?」
ありがとうと言った彼女はいつも通りだった。昨日のことは覚えていなさそうで安心した。しかし、敬語だけは以前よりもかっちりとしていた。
「今日は確か、お相手との会食、でしたよね?えっと、夕食は?Spicaがこんな風なので、お惣菜買ってくるか、デリバリーを頼むしか出来ないのですが︙︙」
「それでいいよ、夕食まではいないつもりだが、少し遅くてもいいなら。腹が減ったら先に食べててもいいし。」
彼女はただ頷いた。
「クレイさん。体調を崩されたとお聞きしましたが、大丈夫でしたか?」
控えめなはずのサボンの香水の香りが、やけに鼻についた。纏められた艶やかな髪、洗練された流暢な敬語に、念入りに爪先まで手入れされた手のひら。そのどれもに違和感を覚えた。俺は曖昧に返事を濁す。父はそんなぎこちない俺と目の前の女性のやり取りを微笑ましげに眺めていた。
「何か困ったことがあれば言ってくださいね。政略結婚であれど、私はクレイさんをお慕いしておりますから。」
父が息子は不器用だからと笑うのを、聞いていた。心底早く帰りたいと願いながら。
俺には、彼女しかいないのだ。ふわふわのクセのある髪、薬品でたまに荒れてしまう手や、爽やかな柔軟剤の香り。敬語は下手だけれど、それでも周りから愛されるような、そんな人だ。隣にいて欲しいと思うのも、一生支え続けたいと思うのも、彼女だけなのだ。こんなよく出来た女性じゃない。
「︙︙すみません、俺、急用が。」
思わず立ち上がった。テーブルの上の、豪華なディナーを危うくひっくり返すところだったが、そんなこと知らない。制止する父や婚約者の言葉に耳も貸さずに、走り出した。
診療所への道を全速力で走っていた途中に、降ってきた雨で幾分か冷静さを取り戻す。今年の夏は、雨が多い。じっとりとスーツが濡れていくのがわかった。足取りはゆっくりとしたものに変わっていた。
「クレイ?」
ハッとして振り返った。彼女は傘を差して立っていた。おそらくお弁当の入った買い物の袋を抱えて。
「骸︙︙」
「思ったより、早かったんです、ね、」
彼女は今更気不味そうに視線を下の方に移した。望んでいたその姿を、思わず抱き締めたくなって足を踏み出した。
「だめ、ですよ。」
聞こえたのは想像するよりもずっとはっきりとした声だった。しかし、傘を持つ、彼女の手が震えていた。
俺は彼女に何を背負わせているのだろう。そして、俺は何を背負っているのだろう。
一瞬のはずの沈黙が、永遠よりもずっと長く感じた。彼女が傘を持った方の腕で目元を拭って、漸く口を開いた。
「︙︙帰りましょうか。」
彼女が俺を傘に入れようと傘を上げて、俺はその傘を拐って持ってやった。それ以降の帰路は互いに無言だった。
「それで、そのまま︙︙」
「何も言わなかったの?」
メアリーの言葉に、大人しく頷いた。
「馬っっ鹿じゃないの?」
「分かってる、俺は︙︙」
「あーあー、違うわ、どっちもよ。病み病み鴉は気持ち悪くて見ていられないわ、ウジウジしないで。やめて頂戴。」
メアリーは背もたれで伸びをして呆れて言った。彼女は俺を鴉と罵る。そう呼ばれるのにも訳がある。まぁ、長くなるので省略するが、『うるさい鴉』『生意気な鴉』︙︙今この瞬間をもって、『病み病み鴉』と言うのが新しい罵りレパートリーのひとつに加えられてしまった。
「大体、貴方達問題に真摯に向き合い過ぎよ。操り人形かなにか?」
「無責任にはいられないだろ」
時には逃げることも大切だと言われても、問題から逃げるのはずっと難しい事のように思う。
「少なくとも、私はそんな愚かなことしないわ。私の人生だもの。私は私の生きたいように生きる。何故貴方達にはそれができないの?」
彼女の、何でも見透かしたような知ったような物言いに、今日は何故か沸々と怒りが込み上げてきた。
「結婚のけの字も知らないお前が何を?自由なお前と俺とは違う!」
声を多少荒げてしまったが、彼女は余裕そうに声色は落ち着いたままだ。
「政略結婚?馬鹿馬鹿しい。相手を好きでもないなら、尚更。もっと貪欲になりなさい。選択することができるのに、何をお利口ぶっているの?私からすれば貴方達の方がよっぽど︙︙」
彼女はそこで言い淀んで、咳払いをひとつした。
「とにかく、私が言いたいのは︙︙」
彼女は所在なさげに、自分の手の甲を撫でた。
「可哀想ってことよ。貴方のために貴方を諦めなければならない骸も、自分に気がないと知りながら一生をともにしなければならない貴方のお相手も。」
彼女はふらりと席を立って窓を開けた。窓から吹き込んだ風がスッと心の中の邪魔なものを取り払っていくような感覚がした。それは一種の魔法のように感じた。
「ま、いいわ。貴方の思うようになさい。」
あとはいつも通りの彼女だった。散々な言われようだったが、心なしか頭の中は来た時よりもずっとスッキリとしていた。
「はぁ?シリカゲル?乾燥剤だろ?何に使うんだよそんなもん。」
彼はスーツのままソファにどっかりと座って、心底面倒臭そうに言った。イベント帰りで申し訳ないが、いかんせんこちらも急ぎなのだ。
「理由を説明してもいいが、骸に言いそうだからな︙︙」
「まぁ、必要があれば、そりゃあ︙︙あいつはお前の担当医だし︙︙?」
彼がそれらしい理由をつけたのを、何を今更と一蹴する。実際、本当にただ毎日のんびり過ごしながら、たまに瓶がどのくらい溜まっているか聞かれるぐらいのことしかしていなかったのだ。彼は困惑したような顔をした。
「食品じゃ無いが、ものを作りたいんだ」
「まさか、お前、人を︙︙?」
「は?」
「︙︙いや、いや、いいよ。冗談だ。デスクの後ろにある棚の2段目に瓶に入ってるのがあるから、使う分だけ取ってけ。俺は寝る。」
彼は俺のしたいことを察したのかそう言った。物分かりのいい奴で助かった。
「なんですか?これ」
彼女は細長い箱を持ち上げて言った。あの日メアリーの家を訪ねてから既に1週間近くが経っていた。瓶は青い金平糖で満ちていたし、スターチスは夏の暑さに負けてほとんど全滅していた。俺はやっとのことでトランクケース一つにすら隙間のできる少ない荷物をまとめ終えた。
「プレゼントしようと思って。」
「︙︙?シャカシャカ音がする、今開けても?」
俺は首を振った。
「俺が帰ってから。時間がなくて入れ物はそのまんまだから、開けるときは気を付けて開けて欲しい。」
本当はラッピングするつもりだったが、式や二次会で着るスーツの仕立てが終わったとのことで、自分で取りに行く必要があったのだ。
「わかった。」
彼女は目を合わせようとしなかった。
形式上窓の外を眺めながら、冗談を言うように呟いた。
「︙︙もうここに来ないで下さいね。私も、したいことがある、から。」
「心身には気をつけるよ。」
「心配だなぁ、」
表情は見えなかった。
「︙︙女の人のこと、泣かせちゃだめだよ。」
「善処する」
「メアリーにはもう言った?」
「あぁ、来ないって。」
そっかぁ、と気の抜けた返事をした。メアリーは綺麗だからドレスとか似合いそうなのに残念だと彼女が呟いた。
「そろそろ行くかな、」
「︙︙︙︙ん。」
玄関先に出て見送ってくれた2人に礼を言った。Spicaはスリッパのままだったがそれについては誰も何も言わなかった。
「せいぜい骨折れよ、クレイ。」
「骨折れるぐらいで済むといいんだが︙︙」
「冗談だよ。まぁ、なんだ。手紙とかそう言うのよこされても困るから。取り敢えずお前らはお前らで、ゆっくり歩いていけばいいさ。」
「ありがとう、」
骸はSpicaに促されてやっと口を開いた。
「私︙︙えっと、ううん、幸せになってね。」
「必ず幸せにするよ。じゃあ、また。」
感動的な別れなんてものはなかったが、これはこれでらしいと言えばらしいのだ。2人に背を向けた。彼らは引き止めることはしなかったし、俺も振り返らなかった。ただ、前を向いた。
◆◆◆
Spicaにトイレに行くからと飛行機のチケットなどが入ったペーパーファイルを渡されて、三十分。待っていたがおかしいのだ。いつまで経っても戻ってこない。もう搭乗する時間はすぐ迫っている。不安になって電話をかけたが出てくれない。旅行に行きたいと唐突に言い出したのは彼なので、置いてったりしないと分かっているけれど、不安なのは不安なのだ。
「骸、悪い、遅くなった。」
後ろから声をかけられた。
「もう、本当におそ、い︙︙」
目と鼻の先に、居るはずのない人がいて、素っ頓狂な声が出た。
◆◆◆
「な、んで、こんなところに、いるの、」
骸が思ったのと違う反応を示したので、思わずSpicaを見た。彼はにやにやしながら首を振った。どうやら彼は本当に"何も"言わなかったらしい。
「一応聞くけど、箱開けた?」
「持ってるけど、見れなくて、その、まだ︙︙」
完全に計画が狂った。彼女があまりにしっかりとした振る舞いをしていたせいで、本来の超がつくほど鈍感な彼女の性分をすっかり忘れていた。付き合うことになった時も、露骨なアプローチに気付かない彼女を、むしろ心配してしまったっけ。
「︙︙うん、だよな、うん。」
深く深呼吸をした。ちゃんと伝える以外の道は残されていない。
「本当は、もっとかっこよく言うつもりだったし、骸はもっと笑ってる予定だったんだが︙︙いいよ、今、開けて。」
「え?わ、わかった」
動揺のあまり箱を取り落としそうになる彼女の手を取って支えてやる。中には色を保ったままのスターチスが、鎮座していた。
「花が枯れないように、一輪だけドライフラワーにしたんだ。もう俺のせいで骸が泣かなくて良いように。」
彼女は驚いてただ黙っていた。
「︙︙締まらないな、ごめん。聞いて。」
「︙︙わかった、」
「俺と一緒に、逃げてほしいって言ったら、怒る?」
彼女はどうだろ、と目を逸らすようにして言った。
「困ったな。︙︙骸の吸い込まれるような深海の瞳が好きだし、もし下手な料理を恥ずかしがるなら俺が毎日だって美味しい料理を振る舞いたいって思う。他の女性なんて眼中にない。支えてあげたいって思うのは骸だけだ。」
骸の目をまっすぐ見ながら言った。
「だから、︙︙信じてもらえないかも知れないが、あいつに頼み込んだんだ、その、Spicaに。」
「旅行のこと?」
「いや、その、全部︙︙」
「うそ、ほんとに?」
「本当。それで︙︙今まで度胸がなくて、できなかったけど、ちゃんと自分で決めることにした。もし許してくれるなら、俺の側に居て欲しい。"必ず幸せにする"から。だから︙︙」
彼女は黙ったままだった。不意に彼女が空港の時計を見て、それからあっと声を上げた。
「ねぇ、その話の続きは飛行機の中じゃダメ?」
彼女なりの了承だった。
「ん、うん、今ホテルについて、それで__」
平気だよ、と何度もそう電話の向こうを宥める彼女は以前よりも幾分か逞しく見える。俺はベッドに寝そべっていた。彼女を眺めながら、まだ夢なんじゃないかと、そんな気持ちで。父や相手方の親戚に頭を下げて回ったのがずっと前のことのように感じられる。
「最初から、旅行に行こうなんて、Spica、インドア派だからおかしいと思ってたんだよね~」
通話を終えた彼女は、持っていた携帯をホテルのベッドに放り投げ、さも何ともないようにそう言ったが、飛行機の中はそれはもう大変だったのだ。改めて気持ちを伝えて、安心し切った彼女は泣き出してしまったし、泣き止んだと思ったら今度は質問攻めにされて、怒ったり、とにかく忙しかったのだ。ことの発端は俺なので全て甘んじて受け入れたが。
「こうなったら、クレイが集めた金平糖、全部食べなきゃ気が済まないなあ︙︙」
わざとらしくそう言うので、俺は仕方ないなと瓶を取り出した。彼女の瞳の色で満たされたそれを彼女の前に出すのは少し恥ずかしいような気もしたが、彼女は気が付かないかもしれない。そうであると願いたい。
彼女が目を輝かせて、受け取ったそれから一粒、取り出して言った。
「これは私と何した時の金平糖?」
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