ムーン・ライトの先へ

それは奇妙な夜だった。僕はいつもと同じようにつまらない事務的な仕事を終え、帰路に就いていた。僕は妙に疲れていて、電車に乗り込み、空き席を見つけて座るとすぐに眠り込んでしまった。そこで僕は夢を見る。随分と長い夢で、内容はよく思い出せない。しかし、煩雑とした種類の夢ではなく、内容の通った、それも随分印象が強い夢だったと思う。夢から覚めて、しばらく頭が混乱してぼーっとしまうくらいに。そのように僕が夢から覚め、ぼーっとしていると、車掌のアナウンスが僕を現実へと強引に呼び戻した。

「次は、𓏸𓏸駅、𓏸𓏸駅です。お降りになる方は、足元に気をつけてご降車ください」

 僕は、言った通り起きたばかりでいくらか混乱していたし、それにすごく疲れていたから、それが聞いたことの無い駅だということに、その駅に降りてホームに立つまで気づかなかった。反射的に発車標を探すが、なぜか見当たらない。気を取り直してスマートフォンで時刻表アプリを開こうとするも、スマートフォンはいくら電源ボタンを押しても暗いままだ。しまった、と僕は思わず頭を抱えた。昨夜充電をし忘れたのをそのままにしていたのだ。なすすべを失い、ホームに呆然と立ち尽くす。

 人に聞くしかない、と思い周りを見渡し、そこで僕は人が全くいないことに気づく。妙だな、と思いつつ改札の横にある窓口へ向かう。しかしそこにも人はいなかった。いくら呼んでも返事がない。いつくるかはわからないが、次の電車を待つしかないだろう。そう思った僕はおおよそ40分くらい待ち続けた。しかし、待てど暮らせど電車が来ることはなかった。来る気配もなかった。どこなのか見当もつかない駅に一人取り残され、僕はひどく混乱する。一体どうすればいいのだ?

 そこで、とりあえず駅から出てみようと決心する。そこで人を探せばいい。面倒なことになってきた、と僕はため息をついた。改札を出ようとしたとき、僕はふと不安を感じた。そもそも金額は足りるのか?定期券に金額は十分入れてあるが、なにしろここは知らない駅なのだ。どれくらいかかるのかわからない。しかしその心配は杞憂に終わった。といっても良いのかわからないけれど。なんと改札は、ICカードに対応しておらず切符用の差し込み口しかなかった。しかし僕はこの改札を通らないことにはどうしようもすることができなかったので、なんとか通る方法はないかと頭を捻らせた。そして、ダメ元で改札をそのまま通ってみることにした。固い板にアラーム音とともに拒まれることを覚悟していざ通ると、すんなり通れてしまった。浮かび上がってくる疑問と違和感を無視して階段を登り、駅の外に出ると、そこには。

 まるで絵画を見ているかのようだっだ。夜空に白く、大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。月は見たことがないくらい大きく、吸い込まれそうなくらい近かった。その強い月光が、夜も更け、すっかり眠ってしまった街を照らしていた。街は、どこにでもあるような住宅街で、そのように同じような家がずっと続いていた。

 僕はとりあえず人を探してぷらぷらと歩いてみることにした。嫌な予感はしていたがやはり人はいなかった。コンビニエンスストアのようなものも見当たらない。

 またもやなすすべを失い途方に暮れた僕は、公園を見つけ、そのベンチにとりあえず腰を下ろした。まったく、僕は何をやっているんだ?自分の無力さと運の悪さを恨んだ。そうしていると、なんだか自分がすごく惨めに思えてきた。一旦世間から見放されてしまうとこうも何もできないものなのか。そんなふうにぼーっと月を眺めていると、だんだん本当に月に吸い込まれてしまいそうな気持ちになってきた。月光は僕を照らし、いまにも僕を飲み込もうとしている。いや、飲み込まれないはずがないのだ。だって僕はこんなにも弱々しいちっぽけな存在で、そして月はあんなにも眩しく、大きく、絶対的で神秘的で、厳かな存在なんだから。不思議と恐怖は感じなかった。むしろ心地よかった。このままその絶対的な力に身を任せていたいと、そういうふうに、自然に思った。

「こんな時間にこんなところでなにしてるの?」

 その声が私を地に呼び戻した。わたしは自分の体がしっかりとベンチにおさまっているのを確認して、その声の方を見上げた。

 そこにはひとりの若い青年が立っていた。切れ長の涼しい目元に、形の良い鼻がどことなくミステリアスな雰囲気を醸し出していた。ずいぶんと奇抜な格好をしていて、金色でギラギラとしたフレアパンツに、緑色の革ジャケットを着ていた。まるでどこかの舞踏会から抜け出してきたみたいだ。

「何もすることがなくて退屈なら、おもしろいところに連れていってあげようか?少なくともこんな公園のベンチなんかよりはずっといいと思うよ」

そういうと彼は、私の返事を待たず歩き始めた。

彼の言葉の意味するところがいまいち私には具体的にイメージできなかったし、見ず知らずの人にほいほい着いていくのはどうかとも思った。しかし、なによりやっと人に会えたのでこのチャンスを逃す訳にはいかないと思い慌てて私は彼の後を追った。

彼の歩くスピードはとても早く、僕は彼を見失わないようにするのに必死だった。彼は住宅街を、右に曲がり、左に曲がり、また右に曲がり、というふうにくねくねと複雑に進んで行った。進んでも進んでも同じような家が続き、よくもまあこんなに家があるものだと思うくらいにたくさんの家を通り過ぎると、すこし開けたところに出た。1軒のビルが周りの家々を見下ろし、ぽつんと立っていた。ずっと同じような色で、同じような高さの家が立ち並ぶ住宅街に立つそれは、どことなく異彩を放っていた。彼がさっさとそこに入っていったので私も戸惑いながらもそれに続いた。

中に入ると、シャンデリアの光がちかちかとした。急に眩しい光を浴び、私はくらくらした。そこはダンスホールのようになっていた。賑やかな音楽とともにシャンデリアの光の下、人々が二人一組をつくりくるくると社交ダンスのようなものを踊っている。人々は煌びやかな服に身を包み、黙々と踊っていた。さっきの青年(いつのまにかその集団の溶け込み、消えていた)が履いていたようなギラギラと光るフレアパンツやそれにドレス。色はとりどりで、ピンクや青、黄色に緑、それにもちろん金色。エメラルドグリーンなどもあって、まるで世界中の色が集められたみたいだった。

しかし、その煌びやかな衣装に反して人々は無表情で、音楽に合わせ、黙々とダンスを踊り続けていた。それは僕に奇妙な印象を与え、混乱させた。どうするべきか考えあぐねていると、不意に音楽が変わった。

それは、懐かしいメロディーだった。その曲は僕が学生時代に気に入り、繰り返し繰り返し聴いていた曲で、社会人になってからは、しばらくばたばたとしていたのもあり、ずっと聴いていなかった。その曲は僕に、ずっと昔の青春の時代を呼び起こさせ、気を昂らせた。踊らずにはいられなかった。無意識に体がステップを踏み、僕は、その集団に身を溶け込ませていった。和に入ると、目の前に女の子が立っていて、一緒に踊ってくれた。我々はその音楽にそのまま身を乗せ、こころゆくまで踊った。その曲はずいぶん長い間流れ続けた。終盤になってくると気の昂りも落ち着いてきて、やっと相手の顔を真正面からしっかり見つめた。

時間が止まってしまったような気がした。彼女もちょうど私を見つめていた。彼女は赤い髪をしていて、服はシックな黒いドレス、靴は赤いヒールを履いていた。肌は透けるくらいに白く、赤髪と黒いドレスが良く映えていた。目は吸い込まれそうな程に大きく、色は深い緑だった。それは僕に雨の降る、しっとりとした北欧の森を想像させた。頬には少しそばかすがあって、とても可愛らしい。彼女は、その細部に至る所まで全ての調和が取れていて、完璧だった。僕は彼女から目を離すことが出来なかった。彼女の瞬きや、すらっとした手と足の動き、髪の揺れ、そのひとつひとつが僕の心と繋がっているみたいだった。僕らは曲が終わるまで、ダンスを踊りながら長いこと見つめあっていた。曲が終わると、急に周りの音が耳に入ってきた。カツカツとしたヒールの音、人々の吐息がホールを熱気だたせていた。曲ごとにペアが変わるようになっているらしく、人の流れが慌ただしくなり、僕らは離れそうになる。僕は彼女の、彼女は僕の腕をそれぞれ同時に掴んだ。彼女は言う。

「近くに海があるのを知っている?」

彼女はそのまま僕の手を引き、ホールの熱気から抜け出し、ビルの外に出た。夜風が冷たく僕たちを吹き抜けた。しかし、そんなもので僕たちの熱は冷めやしなかった。僕らはお互いに火照った熱を抱えながら、海へ走った。

五分くらい走っただろうか。脇目も振らず、走り続け、四回目くらいになる曲がり角を曲がると、そこには広大な海が広がっていた。夜の海というのは、昼のそれとは全く違う生き物だ。海はその表面に夜空の青黒さをそっくりそのまま写し、空と海の境界線がもっと分かりづらくなる。視界一面に夜の世界が広がって、まるで別世界に迷い込んでしまったような気分になる。大きい満月が空にぽっかりと浮かび、その月光を海に溶かしていて、それはまるで月への道筋のようだ。静かで、風の音や波の音すらその声を潜めている。

僕らは手を繋いだまま砂浜に立ち、そんな世界を長いこと見つめていた。まるでその世界を二人だけでひっそりと、壊さないよう大切に共有するみたいに。

「私たち、きっとあの月の先までいけるのよ」

彼女は言う。静かに、だけど確信をもって。

 僕らはまるで世界に二人きりのようだった。いや、たぶん、本当に二人きりだったのだ。

 

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