夢見の悪い墜落諸島より

上空数千メートル。

丸まった窓から見下ろすと見える運河の如き雲の大波。対して上は澄んだ海のように青く。

私たちの大船は正しく天の河に漕ぎ出していた。

私は今学校の一大行事である修学旅行のために飛行機でイタリアのミラノ空港に向かっている最中。

学校では毎日毎日同じような光景しか見ないからマンネリもすぎるけれど、こういう年1のイベントがあると学校のありがたみというか、平穏の良さと言うものを噛みしめることができる。

海外が嫌いというわけではない。

ただ私はこういう飛行機の類が苦手だ。

離陸・着陸の大地震のような大揺れ、タイミングのわからないエアポケットのゾワゾワする感じがちょっと怖い。

とはいえ乗って仕舞えばもう有無も言わさずに矢の如く飛んでいく。寝ている間に全て水の流れのように過ぎていく。

だから寝ていれば良い話なのだが、ちょうど今はいわゆるランチタイム。

イタリアでは昼食のことはなんて言うんだろうか。なんて言おうともかっこいい言葉なんだろうけど。

ヨーロッパ風の顔立ちをしたスチュワードからビーフを受け取る。

ビーフに付け合わせのポテトサラダ、それから見栄えを良くするパセリがちょこんとかわいらしく乗っている。

食事こそが人間に幸福をもたらすというのが私の持論。どんなことにも生命のエネルギーは必要なのだから、寧ろ必要ない場面がないくらい。

まぁ、難しいことは省いて『美味しいは幸せということ』だ。

よって、私は黒いプラスチックナイフとフォークを手に取って紙エプロンを首から下げて、トレーに乗せられた機内食に加工された牛肉を丁寧に切り分ける。

一つを二つに、二つを四つに。

縦に細く、一口大に。

食事のマナーを守っているだけなのに、フォークとナイフを使っていると自分がまるで貴婦人になったような気分になってちょっぴり高揚する。

フォークを左手に、ナイフを右手に。

流麗に筋に沿って削ぐ。

そして、その肉塊の一つをゆっくりと口の中に入れて、臼歯で味わうように噛み潰す。

ーーあぁ、美味い。

中々素敵、これ。

青い空を見ながらの食事、琴線に触れる。特別だ。

フライト中に食べるにはとても特別で雰囲気を相乗的に高めてくれる。

静かなエンジン音しか響かない機内は高級なディナーレストランにでもきた気分にさせてくれる。

機内の静けさと、額に納まった青空の絵画。

これって、私かなりの贅沢をしているのでは?

きっとこれは思い出に残る一品になるに違いない。

私は追体験できないような幸福の一時を心に刻んだ。

しかし、幸福というのは脆い。

幸福というのはメーテルリンクが教えてくれるように身の回りに湧き上がっているもの。

私たちの安息の一時、注視しないところにこそ幸福は存在している。

誰とも争わず、毎日食事を取れることがどれほどの幸福であるのか、私は真の意味で実感していなかった。

しかしながら、この時ーー飛行機の左翼が爆発した瞬間に気付いた。

本来の幸福の意味を、本来の最悪の意味を。

あらゆるものが飛び散りながら火に包まれていく地獄のような箱船の中で、私はこの幸福の味を最後まで噛み締めて、堕ちた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

痺れ。

痛み。苦しみ。

まずは喉の渇きによって目が覚めた。

目を開けると、私は前を見ながら、下を向いていた。

何を言っているか分からないと思う。

安心して欲しい、私も何がどうなっているか理解するのに数十秒要した。

そして考えた末に帰着した結論は、私の乗った飛行機はどうやら墜落し、衝撃であらぬ角度に傾いているということだった。

墜落したという事実の恐ろしさはあまりにショッキングすぎるのか、あまり私の理解中枢に恐怖を与えることはなかった。

周りから臭う焼けた肉のような臭いに気づくまではの話だが。

すぐにシートベルトを外して、ゆっくりと座席に手をかけながら降りていく。

足元は散乱した荷物やら、流れる血潮やらで滑りやすくなっている。足元を照らすツールがなくて逆に良かったかもしれない。

もちろん時にはスロープがわりにしているシートに人が座っていることもあるのだが、それらからは体温が全く感じられず、本能的に生存確認はしなかった。

私は窓から差し込むオレンジ色の光を頼りに外に出られる穴はないかと探した。

そして前方のプレミアムシートの方に大きく鉄がめくれているところを発見した。

爆発源はここらしい。

どうやら、この席で爆発が起こり、機体下を通っていたガソリンタンクに引火して爆発四散したらしい。

テロだろうか?

考えてももう証拠は墜落とともに燃え尽きてしまったかもしれないし、今更誰が犯人だったとしても責め立てることすらできない。

冷や水を掛け流されたような理不尽に悔しさと怒りを感じながら、私は滲む視界を幾度か擦って進んだ。

そして思う「なんて不幸なんだ」と。

そういえば今日は六月の六日。

便の番号はたしか【FF六一六零】だったような。

しわくちゃになったチケットをポケットから引っ張り出して確認するとやっぱりそう。

六という数字は何かと縁起が悪い。

聖書にも六六六は悪魔の数字と書かれているし、日本じゃ無とも掛かることから忌避されている。

かくいう私も六という数字には不吉さしか感じない。こんな修学旅行のような団体でなければ、絶対に飛行機のチケットを払い戻したことだろう。

六という数字が私にこんな不幸を招いたのだろう。きっとそうに違いない。

アンラッキーナンバーの呪縛を目に浮かべながら、私はようやく機体の外に出ることができた。

第一歩目の感覚はジャリ、だった。

湿った砂が爪先を飲み込む。

青い空、白い雲。青い海、白い砂浜。

さっきまでの心身喪失していた状況からこんなリゾートバカンスに連れてこられると脳味噌が落差で沸騰してしまいそう。

今心の中では墜落した絶望と不安が覆っているはずなのに、目の前の綺麗な海を見た途端に感動とドキドキも芽生えてしまった。感動的なドキドキと言ってもラブコメのようなものではないが。

あぁ、こんな状況でなければ存分に、心から楽しむことができたのに。

そんなことを思いながら揺らめく海面をボーッと見ていた。太陽はまもなく暮れ始める。

本当ならば今頃ミラノだっただろうに。絶景度でいえばここも悪くはないが、墜落イベントがマイナス点に拍車をかけてしまっているからしょうがない。

ふと顔を逸らして遠い遠い波打ち際の道に目を向けると、奇妙なことに私以外の足跡が真っ直ぐと並んでいた。

波が来てはすぐに形が朧げになっていくけれども、それは確実に人の足跡だと確信が持てた。

私は急いで駆け出す。

生き残りはいないとばかり思っていたから、私は途方に暮れていた。例え二人になったところで状況が変わらなくとも、一人よりかは断然いいはず。

しかももし現地住民であれば、より良し。

学生がボロボロの制服で波打ち際を走り抜けるとは、なにかのミュージックビデオのようにも見える。

そして、足跡を追っていった先に一つの岩があった。

ただ大きく潮風に吹かれて風化し、尖るように削れた大岩。足跡はその裏に続いていた。

息を呑み、ゆっくりと裏に回る。

岩に手をかけながら、まずは相手の顔を見ようと岩裏をこっそり覗き込むと案の定そこに人がいた。

私と同じような煤けたダメージ加工がされた乗務員の制服を来た外国人の男が、座り込んでランチョンマットを敷きながら優雅にパンと水の入ったペットボトルで晩酌していたのだ。

なんとなく羨ましく、憎らしい。

次に、どうしてそんな悠長なことをしているのか?と混乱。

疲労と不安が私にそんな感情を抱かせた。

それでも、相手が危険な野蛮人ではなく、あの飛行機に乗っていたクルーの一人であるというなら、まだ話は通じることだろう。

「あ、あなた

かすれた声をだしながら、そのスチュワードに声をかける。男はパンを食べる手を止めると、すぐさま振り返った。

「ん?」

レモン色の見慣れない瞳がこちらを捉えて固まる。

彼方としても不可思議なのだろう。

どうして私がいるのか、一種の不気味さすら感じているかもしれない。

しかし、男は私の悲観的な予想を裏切るように平然と立ち上がると、飄々とした態度で語りだした。

「おやおや、生き残りが僕の他にもいたようだ。一人で無人島で死にゆくばかりと思っていたのに、幸運の女神は悪戯が過ぎるなぁ」

男は私の方を見てはにかみながらそう言った。

その顔にはこなれた営業スマイルを含んでいたが、不思議と嫌な感じはしなかった。

こんな青天の真下だからか、それとも煌めく海がバックグラウンドだからか。

「あ、もしよければ、こっちのパンと水を飲む?ストレージに残っていた食料品の一部を緊急事態として持ち出してきたんで、もう!セット余ってるんだ。どうぞ」

そう言って男はビニール袋の中から硬くなった楕円形のパンを取り出して私に手渡した。

多少混乱したが、私は流れに飲まれるようにパンを手にしていた。

「あ、ありがとうございます」

私は完全に会話の主導権を持ってかれてしまって片言にそういうしかなかった。

渡されたパンを口いっぱいに放り込むも、そこからは味がしなかった。

粘土のような食感と砂のような味。

きっと緊張で舌と喉が壊れてしまっているのだろう。

私がこの現実を受け入れるのに、あとどれくらい時間が必要だろうか。

「おぉその言葉。良かった、あなたは日本人か。中国語はちょっとしかできないから、中国人だったらどうしようかって内心焦ってたんだ」

緊張をほぐそうとするための軽いジョークだろうか。

そういえばこの外国人風の男が日本語を話しているというのも改めて考えてみると、中々不思議なことだ。

「そ、そういうあなたも日本語」

渇いた喉を震わせて私はそう言った。

「僕は父がイタリア人で母が日本人のハーフ今風に言ったらダブル?なんだ。生まれはベネツィア、育ちは東京だからこの見た目で寧ろ日本語が母国語です、イタリア語もちょっとだけね?ボンジョルノ」

ソレっぽい発音のイタリア風挨拶。私はイタリアに到達できなかったから、それが本物の発音なのかは分からなかったけど、疑いはしなかった。

飛行機、墜落したんですよね。綺麗な海ですけど向こう側には壊れて血まみれな飛行機があるって嫌なB級映画みたい」

海は陽光を浴びて煌めいている。

しかしすぐ左を見ればそこにはぐしゃぐしゃにひしゃげた形の悪い玩具のような飛行機が視界に入る。

絵画のように美しい浜辺なのに、それをダイナミックに絶望的に破壊する墜落飛行機。

私は口にはしてみたものの、自分の言葉を頭の中では反芻できなかった。

「まさかこんなことになるなんてね。機長が一番予想してなかったことだろう」

ブラックジョークを暗に含んだ言葉に私はなんとも言い難い感情を覚えたが、気にせず続けた。

「ここ、どこなんでしょうか?どこの国の島なんでしょう助けは来るんですよね?」

この島はこの上なく美しい島であったが、人の気配も建築物の影も化学薬品の独特な臭いさえしない。

開けてはいるが、拓かれてはいない土地という感じだろう。

「きっとくると思う。だって飛行機墜落事故だから、そりゃあ特例中の特例でもない限りは1か月くらいで見つかるはず」

確かに、と私は流氷に流されるような不安から一気に解放された。

飛行機の墜落事故なんてマスコミも、警察もすぐに勘付くに決まっている。

しかし、そこで一つの遠雷のように不穏な言葉が耳についた。

「特例中の特例って?」

彼が軽く言い放ったその言葉が針で肌を撫でられるような不安感を醸し出していたのは明白だ。

私が怪訝そうに聞き返すと、彼も若干眉をひそめて言った。

「一応僕も乗務員としていくらか航路や、通過する場所の特徴を大まかに把握はしている。けど、イタリア付近や地中海の中にこんな植生の無人島はない」

「ポーヴェリア島だって観光資源にするために整備されているのに、ここは全然手付かず。こんなきれいな海なら、少しくらいはリゾート開発されてもおかしくないのに」

またも確かに、と思わされた。

ここはそう、綺麗すぎる。

人の手が入っていない自然の美しさがずっと保たれ続けている。

まるでこの島はずっと誰にも触れられていなかったよう。

「つまりここには一度も人が立ち入ったことがない、と?」

私は恐る恐るそう聞き返した。

いや、本当は聞き返すべきではなかったとどこかで思っていた。

折角見つけた助かる可能性を自分で潰すような感覚。

温かくなっていた胸の芯の部分がすっかり冷たく穴の開いたようだった。

「そう。もしかしたら僕らは前人未到の無人島にいるのかも知れない。見つけられていないということは、地図に記載されてないかもしれないということ」

彼から告げられた真実は予想できていたはずなのに、私の精神に重く希望を押しつぶすようにのしかかった。

この現代社会で未だ前人未踏の地があるわけないと思っていたのに。

カメラとインターネットの網に張り巡らされた大きな監視社会の中をこの島はこの大きな図体をしておきながら毅然とした態度で避けていたというのか。

秘境の神秘さを感じさせられるのとともに、この状況ではその神秘が魔の罠のようにすら思えた。

「地図に載ってない!?そ、それじゃあどんなに探したって見つからない可能性があるってことですか!?」

見つからないというのは恐ろしい。

このままこの秘匿された島で死ぬまで、いや死んでも誰からも発見されることはないと思うと、突然心臓が不安ではち切れそうになった。

「声は出るようになったみたいだけど、少し落ち着きなさいな」

彼は不安の流れで大声が出てしまった私を落ち着いて落ち着いてとなだめてくる。

もし彼が居なくてこの可能性に辿り着いてしまっていたら、私は真に発狂せずにいられただろうか。

「まぁそういうこと。最近は人工衛星なんかも使って精度は上がってるはずだけど、それでもなお手付かずってことは余程この島は隠された島だってことなんだろう」

「助けが来なかったらどうしようどうしよう、どうしよう!」

そんな事態が予期されて落ち着けるはずもなく、私は両手で顔を覆って蹲った。

「落ち着きなって。まだ来ないって決まったわけじゃないし、食料だってないわけじゃない。それにこんな生き生きしたジャングルがあるなら、バナナとかザクロとかあるかもしれないぞ」

彼は冗談めかすこともなく、わりと自分の焦りを隠しながらまた私をなだめてくれた。

ここはとりあえず深呼吸でもして落ち着こう。

まだ本当にそうと決まったわけじゃない。

「すー、はぁ。すー、はぁそうですよ、ね。まだここで野垂れ死ぬって決まったわけじゃないわけじゃない」

「ーーそうだ。食べ終わったみたいだし、あの森の中に行ってみよう。食べれそうな木の実とか、動物とかいるかもしれない」

「え、こんなボロボロの状態で森の中に?」

私達は墜落直後で着ていたものは全て焼けたり、破れたりしている。

だから裏を返せば私達は少しずつ怪我をしている。そんな状態で鬱蒼とした熱帯林に入れば、変な病原体が体に入ってしまう可能性や、蚊や虻なんかに襲われることもあり得るだろう。

本当に森に入るべきなのだろうか?

「君は海辺が好きかもしれないが、僕は泳げないんだ。魚は取ってこられない」

彼はそう言ってクロールしながら沈んでいくジェスチャーをする。

別段私も泳ぐのは得意ではないが、彼が泳げないというのはなんとなく意外だった。

「まだ食糧があるっていうなら、ここで体力を消費せずに待っていた方が得策なんじゃないですか?」

ストレージには幾らか食料があると彼はさっきそう言った。

それが日持ちしにくい物にせよ、しばらくは生き残れそうなものだが。

彼は私の問いかけにまるでサバイバル熟練者のようにこう言った。

「いいや、動けなくなってからでは遅いよ。体力がなくなる前に少しでも多く生き残るための材料を見つけておかないと。アリとセミの話知ってる?」

アリとセミ。

日本ではアリとキリギリスで知られている有名な童話。

皮肉的で現実的なアンデルセン童話とはまた違った教訓的なそれはイソップ童話に類する。

「はい、日本ではアリとキリギリスというタイトルで有名です。冬を乗り切るために働いた蟻と、ずっとバイオリンを弾いて怠けていたキリギリス。最後はキリギリスが、凍えて死んじゃうっていう

「分かってるなら行こう。凍えて死ぬ前に」

彼はそう言って強引に私の手を引っ張って森の方に誘った。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

天蓋のように被さる枝葉。

私はトンネルのようで、迷宮のように見える森の中を彼と共に歩いていた。

森もまた雄大で綺麗なのだが、違和感がある。

風や虫、生き物なんかの気配がするというのにまるでこちらの様子を伺っているように身を潜めている気がする。

暗い中に刺す斜光はまるで光の糸のよう。

まるで、森の中に彷徨い込んだ豚を捕食する罠のような狡猾さをこの森からは感じ取れた。

「さて、聞いてなかったけど君の名前は?あぁ先に自分の名前からね。僕の名前はダルク。スペルはジャンヌ・ダルクのダルクと同じD・A・R・C。彼女フランス人だけど」

イタリア人といえばヴァレンティーノだったり、アウグストゥスだったり、アメリカやイギリスの人の名前とは違う雰囲気を醸し出しているものとばかり思っていたけど、案外普通の巻き舌のテクニックを使わない名前もあるものらしい。

彼の名前がダルクとどこかで聞いたことのある名前だと分かったところで、私も名前を名乗った。

「私は、新谷 基子です。新しい谷で新谷で、基盤の基に子どもの子で基子。大朝学園の高校二年生です」

「うーん?漢字で書いたらすごい難しそうな名前だね」

彼は腕を組んで頷きながらそう言った。

イタリア人の風貌からしたら漢字が苦手なのは納得できてしまいそうだけど、彼自身が日本育ちだと言っていたのだから別段日本文化に詳しくないというわけではないはず。

「私の例えはあんまりよくなかったのは否めないですけど、多分小学生高学年なら私の名前なんて書けると思いますよ?」

強いて難しい漢字なんて『基』くらいだと思っていたけど

彼は組んだ腕をパッと開いて、あっけらかんと笑った。

「僕は漢字が苦手でね。あんなにたくさん、しかも細かく作らなくても良いじゃないかって思ってるんだよ。まったく昔の人は何を考えたのか。おぉ!そんなことよりアレは青い鳥じゃないか!幸福が訪れそうだ!」

話がころころ変わるな、と思いながらも彼が無邪気に真上の方に伸ばした指の方を目で追うとそこには日光に照らされて羽毛をサファイアのように輝かせる鳥がいた。

まさしくそれはチルチルとミチルが探していたような理想の青い鳥だった。

幸福を呼ぶ鳥。

不幸に出くわした私とは正反対の象徴を持つそれはナナカマドのように赤い爛々とした眼で私と同じように見つめていた。

それが幸運を運ぶ鳥にしては不気味で、まるで考えていることすべてが見透かされているようでちょっとした気持ち悪さを感じさせた。

なんでこっちを見つめているのかしら?

まるで何かを告げたそう

「青い、鳥。でもあの鳥、何かおかしいような?」

違和感?

何か存在単位でずれてしまっている。

空間がだんだん灯りの消える真夜中のように捻じれていくような錯覚を感じる。

今は夏だというのに肌の下を冷却液が注入されたような悪寒が走る。

「どこもおかしくないさ。ここはどこかの無人島、観たことのない鳥がいても不思議じゃないだろう?あぁ、あっちにはドードー鳥なんてのも!」

彼にはこの異常が現れていないらしい。

声の音が変わった様子はないし、彼の顔色が青くも赤くもなっていないところを見ると私だけにこの異変は起こっているらしい。

私は異変を気づかせないように精いっぱいのやせ我慢な苦笑いを浮かべてそちらを見た。

「そんなわけないですよ、ドードー鳥は絶滅してたはずなんですから」

彼がまた指さした方向にはハシビロコウとアヒルを足して二で割ったような姿をした生物ーー紛れもないドードー鳥の姿がそこにあった。

毛羽立ってまるまるとした姿かたちがどう見てもドードー鳥にしか見えない。毛づくろいをする見慣れた様に感じる愛くるしい動きも、その羽の質感もどこまで行ってもドードー鳥なのだ。

けど、だからこそ違和感がある。

私ーードードー鳥を見たことってあったかしら。

「ドードー鳥が絶滅したって?いつ?誰がそんなことを?馬鹿を言っちゃいけないよ、それとも暑さで頭がやられたのかな?ここは神秘の無人島、何もおかしいことなんてない。それとも君はロンドン万博博覧会に出展されたあのイメージの塊が本物だとでも思っているのかい?本当は絶滅なんてしてなかった、そういうことさ」

彼のジョークじみた言葉がまるで粉末のように私の気管支に入り込み有無を言わさずそれを正当だと飲み込ませる。

甘ったるい脳みそを溶かすような幻覚。

どこか間違っているのを明確に指摘できず、私はドードー鳥から視線を外すしかなかった。

何かがおかしい。

だってだって?

何かがおかしいのにその理由が全く分からない。

頭が転がり落ちるような錯覚を引き起こす。

森の中を通り過ぎていった風が今はメリーゴーランドのように渦巻いているような感覚がする。

壁の中を猫の大群がひっかきまわしていくような雌伏で、嫌悪的な風。

私はだらだらと流れる冷汗を制服の裾で拭って、彼に妄言のように言葉を吐いた。

「やっぱり何かおかし、ッ!?」

頭痛がひどい。

頭だけではない、体全体の力が抜けて空に突き落とされたようだ。まるでこれは熱にでもうなされているよう。

先ほどまで姿も現さなかった小さな生き物たちはこぞってその虎視眈々と輝く眼をこちらに向けているのが分かった。

あぁ、怖い。怖い!

轟轟と波が崩れるように頭の中を響く頭痛は私の思考を濡れた布で縛るような圧迫感を与えてくる。

その狂気を浴びて倒れそうになった私をダルクは優しく受け止めた。

「おお、大丈夫かい?」

彼が私の異変に気付いて近寄る。

「頭が、痛い!」

もうそれしか頭になかった。

それ以上の奥に触れてしまっては恐ろしい深海で溺れるような息苦しさまで発作的に起こってしまうんじゃないかと思ったら、意識を集中させることはできなかった。

「それは大変だ、急いであそこにある洞窟の中へ入ろう!いったんそこで小休止だ!」

そう言って彼は私を背負って大穴の中に入っていった。

洞窟というに相応しくも、神秘は感じられない大きな生物のあんぐりと開けられた口のような虚ろの中へ。

感じられるはずのない夜の雰囲気と笑う猫たちの鳴き声。そしてその中に混じっている心電図のような音。更にはバイオリンのような音。

私はきっと事故の影響で頭をやられてしまったのだろう。もうそう思うほかなかった。

本当は別の要因が他にあると薄々感づいていてもそのテリトリーに踏み込む正気は持ち合わせていなかった。

為す術なく私は彼によって禁忌の大穴の中に運び込まれるのだった。

そして、そこで私の視界は完全に光を落し、脳髄に響いていた鈍痛も狂音も全て遠くに飛び立つように消えていった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「はァい、久しぶり。嫌そんなにでもないかァ。元気してる?」

甘ったるくも、タバコの煙のようにまとわりつくような声にスイッチを入れられたように私は意識を覚醒させる。

眠っていたわけでは無い、ずっと意識が別のところに集中してしまっていた。

どこか遠い、ずっと遠いところに。

どうしてか私は何時の間にか病院の個室のようなところにいた。

何の歪みもない四角い部屋のど真ん中にぽつんと孤島のように浮かんだベットの上で正座をして見知らぬ白髪のひょろひょろとした特徴のない男の顔を見ていた。

妄執的なまでに潔癖を示すような白色で一切それ以外の色を認めないような淡色の世界。

備品もほとんどなく、左側の壁に取り付けられた窓の外も曇り空なのか真っ白だった。

「え、えぇ。元気だわあなた誰?ここは?」

まだはっきりとしない意識の中この状況を理解しようと停止していた危険本能のエンジンを動かしだす。

私がその得体のしれない男にそう尋ねると、男は冗談を言っているのか?と言いそうな大笑いを部屋の隅々にまで広げた後そのままのノリで調子ずいて返答した。

「あなた誰って記憶喪失者のモノマネ?君はサイコシスじゃなくてジャンキーだってのにさ。んはははぁ!良いジョークだよな」

彼にとってこの現状は何の異常性も感じさせないごくありきたりな道すがらに沿って構成されたものなのかもしれない。

しかし、私にとってはここの壁からも大群の猫の気配が感じられる不快な場所に変わりなかった。

全てを隠そうとする前面の白が純粋さよりも隠匿や狂気の色を濃く反映している。

「今、今私は無人島にいて

そう私は無人島に不時着してダルクとともに

いや、ここは真っ白な病院。

そして私は患者よ。

まるで脚本を読み上げているように私は己の置かれた状況を演じるように。

自分の記録を上書きして理解した。

突如バチリと消えていた頭の中のスイッチが押し込まれ、電流のような頭痛が脳内を錯綜した。

私は一瞬の痛みにこめかみ辺りを両腕で覆って蹲った。

「ははは!無人島?ずーっと昔から無人島みたいなところにいるのに、何をいまさら無人島って、ははは!映画の登場人物にでもなったつもりか?ロスト・バケーションも良いところだろうに」

「あなた誰なの、答えて?」

私は二度目の質問をする。

彼は私の真剣な言葉をどう受け取ったのか分からないけど、笑った顔を溶かして声音を平坦にして答えた。

オーケィ。僕は君の恋人エンジェルダスト、ここはとある病院。君は患者だ。そして君は麻薬中毒者だからここに入院している」

至極簡潔ながらも知りたいことの詰まった返答。

しかし、絶対に疑問が浮かんできていい言葉なのに何かに催眠されているように脳の回路が事実や記録と照らし合わせようとすると記憶の端に追いやろうとしてしまう。

このことを考えてはならないとまるで私の頭の方が拒絶している様だ。

でもそれでも、今の言葉を反芻してできるだけ理解してみる。

「私、麻薬なんて一度もやったこと

「勝手に君が忘れているだけさ。夢を見続けて目を背けている。ここも君の夢で、どこに行っても夢から覚めるなんてできないんだよ」

この男が言っていることが全く理解できない。

私は一度もドラッグになんかーー

こわばった手が後ろにずり下がると、手のひらにザラザラとした粉末の感触がこびりついた。

「そ、それに私に恋人なんかいないわ!」

また一つ頭の中の回路がつながり徐々に隠されていた記憶があらわになっていく。

白髪の男性と付き合った経験も、このエンジェルダストと名乗る男にあったことも一度もない。

私はそれだけはしっかりと覚えていた。

だからこそ、この男から発せられる名状し難い気色の悪さと狂気が私の体を震え上がらせた。

しかし、怒りに震えるのは私だけじゃなかった。

私の言葉が余程気に入らなかったのか、エンジェルダストは私の髪の毛を引っ張ってベッドから引きずり落した。

受け身の取れなかった私は頭のてっぺんから床に落ちて、這いつくばるようにその男を見返すことしかできなかった。

人から限界まで人間性を引きはがした怪物のような男。

エンジェルダストは苛立ったように着ていた服のポケットから何やら錠剤のようなものを取り出して噛みつぶして飲み込んだ。

そして、私のほうにしゃがんで近づくと恍惚とした笑みを浮かべたまま言うのだった。

「僕はエンジェルダスト、君が愛用する薬だよ。アディクトと蔑まれても何も言い返せないような君の唯一の味方さ。君は僕と一緒にいつも窮地を抜けてきた。そしてこれからもそうなる」

「いや!近寄らないで!私は貴方なんか知らない!出口はどこ!?」

私は立ち上がるとエンジェルダストを蹴飛ばして部屋の出口に向けて走った。

スライド式のドアは異様に重く、鉛のようにゆっくりと開く。しかし、力を込め続けてないと全く開けることができない。

その間にも後ろからはあの男がゆっくりとこっちに近づいてくる。

私はその軋む足音を聞いて心臓をバクバクと鳴らしながらも、後ろに振り返れずただ全力でドアを開けようとしていた。

このままアイツに追いつかれたら確実に想像を絶する恐怖が待ち受けている。その予感だけは鮮明に私にこびりついていた。

これは夢よ、夢よ、夢なのよ!

どうして私がこんな仕打ちをうけなくちゃならないの!?

空いた隙間に体をねじ込むようにして扉の外に出る。

外は、そこはーー

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「うわぁぁぁ!!」

「うわぁぁぁ!?」

鼠が全身を這いまわるような嫌悪感。

ぐっしょりと汗でぬれた制服が肌に張り付いて更に気持ち悪さを底上げする。

狂気の夢から飛び起きた私の絶叫に驚いたダルクが素っ頓狂な叫び声をあげていた。

「ど、どうしたんだ?顔色が優れなさそうだ、大丈夫そうじゃないよな?水飲むか?」

肩で息をする私の異常な様子を心配して持ってきていたらしいペットボトルを一本渡してきた。

私は奪い取るようにそのボトルを握り込むと、ほぼ垂直に持ち上げて大きな渇きの全てを潤そうと全て飲み切った。

一滴の雫さえ舐め取って、私は喉元までせりあがった恐怖を胃の底に投錨して戻した。

「あぁ、一気に飲んじゃってそれは最後の一本だったんだけどなぁ」

「え!?ごめんなさい!私なんてことを!」

正気を取り戻した私は彼の言葉の意を理解してすぐに自分のやった行いを後悔した。

うなされていたとはいえ、この島で生き抜くためには必要な貴重な水を飲み干してしまった。

その事実が大きな罪悪感と焦燥となって頭の中に満たされていた他の恐怖を押しのけた。

「いいよ、過ぎてしまったことは取り返しがつかないからね。さぁ、過ぎたことより前を向こう!この洞窟の奥にはきっと何かあるよ。行こう?」

彼はこの洞窟と同じような暗く中身のない黒目をして、私の手を引っ張る。

まるでこの洞窟に魅入られてしまったように彼は先へ先へと次の闇を目指す、しかしそろそろ背後から入っていた日光を頼って前には進めない。

「そんな、ここでは休憩するだけって話じゃなかったっけ?」

私は苦し紛れにそう尋ねる。

しかし、この洞窟の霊にとりつかれてしまった彼はそう言っても聞く耳を貸しそうにもなかった。

「この奥から何かが呼ぶ声が聞こえてくるんだ。すごいぼんやりした人の声が。もしかしたら、誰かがいるのかもしれない。助けに行かないと」

あぁ、やっぱりこっち側も狂い始めている。

どちらが現実でも、夢でも永遠にドグラ・マグラのような悪夢の中。終わりのない享楽地獄。

彼が言うような声が聞こえた覚えはないけど、もしかしたら私が寝ている間にあったのかもしれない。

私に聞こえるのは猫の大群の足音だけ。

今はそれ以外の恐怖は感じられない。

「えぇでも

「見捨てられないでしょ?灯りならこんな時のためにポケットサイズの懐中電灯があるから。さ、行こう?」

「はいわかりました」

私はようやく全てを理解して、地獄の最下層に向かって観念して歩き出した。

人がどこかに向かい続ける性に囚われてしまっているゆえに私は随喜の果てを耄碌して進むしかない。

カツカツと、硬い岩の地面を踏みしめて先へと堕ちていく。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

洞窟の奥に進むとゴシック様式とロマネスク様式を東洋風に混ぜて模倣したような幾つもの柱が崩れて倒れていた。

「これもしかして石像、いえ神殿の一部か何かにも見えるわつまりは昔ここに人がいたってことなんじゃないでしょうか?」

私は倒れた柱の一部に刻まれたアラベスク紋章を手で擦る。よく見ると、全ての柱にローマ数字のⅥを想起させる模様が施されていた。

触れてみれば、ひんやりとした感触が伝い、結露でもしたように濡れていたのが分かった。

ここは無人島とばかり思っていたけど、こういったものがあるなら少なくとも一時は人がいたはず。

「多分そうだろうね。もしかしたら帝政ローマ時代に流された異教徒たちがこの島の洞窟で秘密裏に神殿を建てていたのかも。どうあれここはきっとヨーロッパのどこかだろうし」

彼も興味深そうに場所に不似合いなオーパーツを検分していると、私達の背後を通り抜けていく明確な気配がした。

ふと振り返ってみると、洞窟の奥の方に進んでいく小動物の後姿が見えた。

それはよくみかけるありきたりなフォルムの動物、真っ黒な色のせいで分かりにくかったが恐らく猫のような何かだった。

「あれ、今のって猫?」

「本当だ黒猫がこんなところにあぁ、奥に逃げていく!」

彼は柱の目利きの最中にも関わらず猫に向かって飛び出していった。

懐中電灯を持っているのは彼だけ、彼がその光源を振るたびに影が生き物のように動きこの洞窟の不気味さを強調する。

「待ってください!そんな奥に行ったら!」

灯りのないところにはいられないと、私も彼の後を追う。

どんどんどんどん地下へ地下へと誘われ、惑わされていく。

超自然の何かが私達を招いているのか、それともこれも私の見ている夢なのか。

先に進むほど道は広くなり下った先には大きな空間が出てきた。

ピチャリ、ピチャリと気味の悪い水音が響いている。ここまで枝分かれした道はないはずなのに、どこまで行っても黒猫の姿はない。

もしかして見間違いだったのかしら?

猫の存在が頭で引っかかる中地面を見ると、そこには大きな円が書かれておりまたしても柱に刻まれていたようなⅥが刻まれていた。

ここはⅥという数字に縁の深い腐ったカルト集団の本拠地だったのかもしれない。

「これってローマ数字のⅥ六、私にとって不幸な数字。ここから先に行くのは嫌な予感がします、猫もたくさんいるようですし引き返しましょう」

「六が不幸の数字、どうしてそう思うんだい?」

「それは人生史上一番不運な日が今日六月六日で、飛行機のチケットにも多く6があるから。私の人生をめちゃめちゃにする数字なんです!」

「それはきっと違うな、本当に不幸ならきっと君は生きていなかっただろう。不幸の中でも幸運な、悪運ってやつじゃないか?九死に一生という言葉もあるし、君にとってその六という数字は絶体絶命な時に君を救ってくれる聖なる数字なんだよ」

六という数字が、聖なる数字?

彼はここに残るⅥを崇拝していたカルト集団が残していった怨念にとりつかれてしまったのかもしれない。この洞窟の中に来るべきじゃなかった!

あの夢を見てから何もかもが狂いだしている。

ここももうじきーー壊れた夢のように

「そんなわけそれよりも速く引き返しましょう!戻れなくなりますよ!あぁ、また頭痛が!」

今度ははっきりと頭蓋骨に響く鈍痛。

それでも今度は頭の中に意識を集中できる。

痛みの原因が何か、ふらつきながらせめて倒れる前に知りたい私は必死に思考を巡らせた。

この痛みは、頭の内側から来ている。

まるで私の髑髏の中にいる寄生虫が蛹から飛び立つ蝶のように窮屈な殻を破ろうとしているのだ。

エンジェルダストと名乗ったあの正体不明の白男、彼が私に近づいてきているようなドライアイスのような冷たさが脊髄を一つ一つ冷やして這い寄る。

「さぁ、島の最深部の秘密を紐解きに行こう。きっとそこにはこの島の在り方を示す何かがあるはずさ!さぁさぁ!」

彼はもう彼でなくなってしまった。

私も次期に私じゃなくなる。

この世界でさえも現実だという固定観念をはがされて夢に帰る。

「ーーッ!?」

2回の瞬きののちに幻覚のようにアレが現れた。

黒猫が何時の間にか円の真ん中に寝転がっていた。

悪びれる様子もなく、怯える様子もなく、じっと静止画のように固まってそこにいた。

その姿は懐中電灯から出る光や壁からの反射光を浴びても一切コントラストのつかないリアリティの欠如した真っ黒な存在だった。

黒猫は顔さえ黒く、猫特有の光る瞳孔がない。

ただそこに居るだけなのに、恐怖と好奇心を煽る神秘性と狂気を孕んでいた。

けれど、一歩でも近づいた瞬間にとてつもない表現しがたい惨状が広がってしまうような本能的なタブーを私は刺されるように感じた。

「黒猫、あぁやっと見つけた」

ダルクという人間でなくなりつつある彼は猫に向かってギギッと音が鳴りそうな不気味な笑みを浮かべて、その猫に向かってフラフラと歩き始めた。

きびきびとした客室乗務員としての彼の洗練された動きは影もなく、頭が揺れて重篤な病人のようだった。

止めなくちゃ

しかし、私は彼を制止することができなかった。

金縛りにあったように体が全く動かなくなっていた。

目を背けることも叶わず、これから起きる正気をなくすような悪夢をただ待つことしかできないと悟った。

「ははっ」

彼が渇いた笑みを浮かべて、猫の背を撫でる。

すると突如として大型の動物が唸るような声がどこからともなく地を揺るがすような低音で響き渡った。

百獣のライオンを遥かに凌ぐこの星の生命体が束になってかかっても勝てない太陽のような存在感を放つ怪物のようだった。

ただし、その怪物は太陽に人を照らすことはなく、太陽の温度とはかけ離れた絶対零度の瘴気を纏っていた。

しばらくすると、天井の暗闇から何かが降り注いできた。

黒猫。

黒猫。

黒猫が落ちてきた。

一匹二匹、いやそんなものじゃない。

排水溝に流れ込む雨のように天井から夥しいほどの猫が降り注ぐ。

それらは中央にいた黒猫のように光を浴びても実体を把握できない切り取られた暗闇のような色をしていて、それが彼の手から落とされた懐中電灯に照らされると、この空間にあふれんばかりの猫模様が散った。

そのインクの染みのような猫たちは一斉に中央の猫と彼に群がって継ぎ目のない一つの塊になっていく。

軍隊アリが大きな動物を食い殺すときのように獰猛に蠢動していた。

中心で四面楚歌となった彼は忘我して幸福に浸り、恐怖することもなく埋もれていく。

その様子は正に闇に飲まれていく薬物中毒者のようで見ていて生理的嫌悪感を催した。

彼の頭の一欠も見えなくなっても、猫たちは塊になるのを止めない。

どんどんどんどんどんどん、大きく大きく大きく大きくーー巨大な恐ろしい一匹の黒猫になった。

太陽の獣と称していいのか分からないとにかく大きな黒き塊。

輝くこともない寧ろ全ての光を飲み込むブラックホールでできたような獣。

ついに一つになった黒猫は頭部がまるで開花前の百合の蕾のように膨らんでいた。

そして、一気にそれが朝を迎えた様に花開く。

巨大な黒猫の頭部であったはずの部分は花びら状に裂けて禍々しい花を咲かせる。

私はただその様子を呆然と見ているしかなかった。

そして、猫は四駆をのっそりと動かしてこちらに向かってくる。

懐中電灯を踏み潰して、視界が奪われる。

聞こえてくるのは野生動物特有の湿った鼻息とのっそりとした足音。

洞窟最深部を照らす光が消えたことで黒猫のような巨大で恐ろしい生命体は完全に空間と同化した。

真横に、真後ろに、真正面に、真上に、真下に全てにあの猫の気配を感じる。

こんなことあり得ないと私は知っている。

六が幸福な数字でないことも知っている。

黒猫も不幸の象徴だと知っている。

あぁ、どれが現実なの?

ここが現実じゃないことくらい分かってる。

でも、私が麻薬中毒者だとエンジェルダストが言っていたあの悪夢が現実でないことも分かっている。

知っていること全てが私の狂気と悪性で鋳造された紛い物だったのなら、私はいったい何者なの?私はいったい誰なの?

生暖かい猫の下が私の顔を舐める。

私はーー

そしてまた全ての感覚が曖昧に消えていった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

少しだけ開いた目から暖色の淡い光が入ってくる。

自分の顔に取り付けられた仰々しい酸素供給用のマスクが視界の端に映る。

腕にも何本ものチューブが繋がれている。

その先には奇妙奇怪極まりないサイケデリックな医療機械群がある。

またあの真っ白な病院の個室。

私は全身の神経がマヒしているようにピクリとも動く気がしない。

唇も眼球も動かすことはできず、震えるばかり。

歪む天井の一点を見ていることしかできない。

ぼんやりとした人影が見える。

「また、繰り返すか」

そう吐き捨てて、人影は視界から外れ遠くからガラガラとドアが開いて閉まる音が聞こえた。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

少しだけ開いた目から暖色の淡い光が入ってくる。

自分の顔に取り付けられた仰々しい酸素供給用のマスクが視界の端に映る。

腕にも何本ものチューブが繋がれている。

その先には奇妙奇怪極まりないサイケデリックな医療機械群がある。

またあの真っ白な病院の個室。

私は全身の神経がマヒしているようにピクリとも動く気がしない。

唇も眼球も動かすことはできず、震えるばかり。

天井の一点を見ていることしかできない。

ぼんやりとした人影が見える。

イタリア人のような顔つきのドクターと白髪のドクターが私の顔を覗き込んでいる。

ーー意識回復しました。

ーーまたいつもの波か。

ーー起きてるのか寝ぼけてんだか分からない狭間にいるだけですね。

ーー重症ですからもって後半年かと、肝機能の著しい低下が手の施しようがありません。

ーー俺もこうはなりたくないね。一時の気分に任せてこうなるなんて、くわばらくわばら。

ーーあ、また意識レベルが!

ーー大分早くなってきましーー

あぁ、私を見捨てないで。

私を現実に引き戻して。

あの狂気の夢から救い出して。

そしてまた私の意識は黒く、黒く、睡魔の底に落ちていった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

上空数千メートル。

丸まった窓から見下ろすと見える運河の如き雲の大波。対して上は澄んだ海のように青く。

私たちの大船は正しく天の河に漕ぎ出していた。

 

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