ふと、彼女と出会ったときのことを思い出した。
初めて自分のクラスの教室に来た時だ。
その時の私は、潜めた声が重なってざわめく教室の中で、早く到着してしまった事を悔いていた。
親しい友人も会話を楽しめそうな初対面の人も見つけられずに、ただぼうっ、と虚空を見つめ続ける事、十分後。
不意に横目で見た近くの扉から彼女は颯爽と歩いて来た。朝の薄暗い室内で光輝を放つ彼女に目を奪われる。
すらりとした手足。
艶やかで豊かな黒髪。
彼女との距離がどんどん狭まっていき、二メートルを切ったところで目線を他へと移した。
いつまでも不躾な視線を送っていてはいけない。
そんな当たり前のことに気付けなくて、今更ながらいたたまれなくなり膝に視線を落とした。深呼吸をしようと深く息を吸った時、あの、と声をかけられた。
振り向くと、発光した少女が立っている。
「私、ここの席なんです。よろしくお願いします」
小野 千里っていいます、とはにかみながら彼女は呟いた。
◇◇◇
あれから一ヶ月。
いまだに私は、彼女と友人というべき関係には至っていなかった。
帰り道に今日起こった事を反芻しながら改札を通ろうとしたとき、定期券が無いことに気づいた。登校したときは手に持っていたので、おそらく自分の机に入れたまま来てしまったのだろう。
教室への道程を頭に思い浮かべて気持ちが沈んだが、物が物なので取りに行かないわけにもいかず、来た道を反対に歩き出した。
最後に、最難関の長い階段を駆け上がり、一息ついてから教室を覗き込む。
廊下とガラス一枚で隔てられたその空間は、しん、と静まり返っていた。天井に備え付けられている蛍光灯もついておらず、窓から仄明かりが差し込むだけだ。
半開きになった引き戸の隙間に体を滑り込ませて入ったとき、初めて人の気配に気が付いた。
小野 千里だ。
彼女は窓の外を見つめている。
中途半端に開いた窓から入ってきた風が彼女の長い髪を揺らした。
斜陽を一身に浴びて、いつにも増して発光しているように見える。
いや、むしろ彼女が光の一部なのかもしれない。触れたら淡く暖かい春光の中に溶けて消えてしまいそうで不安になる。
私に気付く気配が一向にしないので、声をかけようと一歩踏み出すと、彼女の唇が微かに動くのが見えた。
「ここから落ちたら、︙どうなるんだろう」
そう言うや否や、彼女は窓枠を掴む。
私の体は考える間もなく動いていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
咄嗟に細く白い左手首を掴むと、彼女が振り向いた。
目を大きく見開いてすごく驚いた様子だ。
当たり前だろう。彼女は私が教室に入って来たことすら気づいていなかったのだから。
こういう時なんと言えばいいのか分からない。
ただ彼女と向き合って立っているこの状況への困惑だけが胸に留まっている。
小野 千里の顔をこんなにしっかり見たのは初めてかもしれない。長らく意識していたせいで、目を合わせらせなかったのだ。
整った鼻梁、ヘーゼルの瞳を縁取る長い睫毛、薄く桜の花弁のように色付いた唇。
私が手首を掴んだまま黙り込んでいると、目の前の彼女は状況を察したらしく、張り詰めていた息を吐き出した。
「あの、何か勘違いさせちゃったみたいだね。ごめん。︙さっきのは冗談だから。それにこの窓、これ以上開かないから。安心して?」
その声にはっとして、急いで掴んでいた手を離した。
彼女の手首は私が掴んでいた場所だけほんのり赤くなっていた。元が白いだけにその跡がやけに目立つ。
「あ、ごめん。そんな強く掴んだつもりは︙」
「気にしないで。まさか人がいると思ってなかったから、私も変なこと言っちゃったし」
彼女は恥じ入るように俯いた。肩にかかっていた滑らかな黒髪が胸元に落ちる。
シャンプーの香りだろうか、シトラス系の爽やかな匂いがした。そんな事を考える自分に驚き、誤魔化すために口を動かす。
「その、本当に掴めると思ってなくて!」
「へ?」
彼女はぽかんと私の顔を見上げていた。
それはそうだ。私は今とんでもなく変な事を口走ったのだから。
慌てて弁解しようと思考を巡らせるが何も浮かんでこない。
だってそのままの意味だったから。
小野 千里は余りに現実離れし過ぎていて、触れることなどできないような気がしたから。
彼女はわたわたしている私を呆然と見つめていたが、返す言葉が見つかりそうにない様子を見て、ふわりと微笑んだ。
「変なの」
その微笑みでさらに思考が停止して何も言うことが出来なくなってしまった。血液が全て顔に集まったかのように熱い。
ただ一言。
「えっと、すごく︙綺麗です、ね」
それを聞いた彼女は唇を引き結び、冷めた顔をすると私に背を向けて歩き出した。
私は失礼な事を言ってしまったのかと後悔してその背中に、ごめんなさい、と謝罪の言葉を投げかけた。
彼女は振り返らずに立ち止まり、独り言のような小さな声で呟いた。
「︙、お世辞じゃないなら、謝らなくて︙いい」
彼女はまた歩き出してしまう。
彼女が離れていってしまう。
頭の中が沸騰しそうなほど熱くなり、耳鳴りがする。彼女を引き留める言葉が欲しい。
今引き留めなければ、この一年の間ずっと接点を持つことができない気がした。
「お世辞じゃないよ!すごく好みだなって思ってる!」
ドンッ、キィー、︙バタンッ。
机が跳ねて、その反動で椅子が倒れたようだ。その横で小野 千里が脇腹を抑えて蹲っている。
「お、小野さん!?大丈夫?」
急いで彼女の元へ駆け寄ると、手で制された。どうやら無事だったようだ。
安心して緩んだ私の顔を彼女は一瞬キッと睨みつけたが、かぶりを振った後に聖母のごとき微笑を浮かべる。
「江野 律さん。あなたの口は誤解を生みやすいみたいだから、よく考えて発言したほうがいいわ」
「ご、誤解じゃないよ。その、︙小野さんのこと、本当に可愛いなって思って、︙えっと。ずっと、見てたから!」
ここで私は気がついた。
どうやら私は、小野 千里の前だとマトモな会話が出来ないらしい。
彼女はとんでもない阿呆を見たというような最大限に呆れた顔を向けてから、私の脇をすり抜けていく。
弁解しようとしたが、舌がうまく回らない。
小野さんは自らの席にかけてあった鞄を取ると、短く息を吐き出した。
もしかしたら笑われたのかもしれない。
彼女はくるりと身を翻すと、また明日ね、と言い、天使の微笑みを私に向けてから教室を出て行った。
◇◇◇
その後、入れ替わるように入って来た友人は私を見て、怪訝そうな顔をした。
「律。何、にやけてんの?」
私は立ち上がり、友人に内緒話をするように言い漏らした。
「小野さんが、︙小野さんが名前、知っててくれた」
友人は既視感のある呆れ顔をして、ため息をついた。
「なんか察した。︙そんなにいいかなあ、たしかに美人だと思うけどさ」
「小野さんは世界一きれいだと思う!」
「︙はいはい、どストライクだったんだね。なら、あとで謝ったほうがいいよ」
さっきすれ違ったとき顔真っ赤にしてたからさ、そう言って友人はさっさと荷物をまとめて帰ってしまった。
その場でぼーっ、としていた私は小野千里が佇んでいた窓辺にそっと近づいた。夕方の涼しい風が吹き込んでくる。
ちらりと下を覗くと、部活をしている人が見えた。ここから落ちたら、︙間違いなくぺしゃんこだ。
校舎の最上階にあるこの教室は他の階と雰囲気が異なる。人の気配から切り離されたこの場で彼女は何を考えていたのだろう。いつか彼女の口からそれを聞くことができるだろうか。
そこで急に、何故彼女のことがこんなにも好きなんだろう、という疑問が湧き出た。私は彼女のことを何も知らない。
私は夕映えで輪郭が浮き出たビル群を眺めながら、また明日、という言葉を考えていた。
ニックネーム:善知鳥
性別:男性
区分:中学生
感想:最初に一つ申し上げさせていただきますと、三点リーダーが横を向いています。
本題の感想ですが、主人公の胸中の自分の中に仕舞っておいている気持ち、言ってしまった後の淡い後悔の気持ち、よく描かれていると思います。強いて言わせていただけば、短編ではなく、長編としても良いネタだったのでは?と思います。