雨粒は紫陽花に激しく打ちつけ、鮮やかな赤紫を透かして膨らみ、葉脈を伝って地面へと落ちていく。梅雨入りを告げる強い風雨に、流石のかたつむりも鳴りを潜めているらしい。時化た顔の学生たちがぬかるんだ土を引きずりながら校門を抜ける。
この中に、二人の姿はあった。
「なあ、若狭とは最近どうなんだ。なんかあったのか」
体格に恵まれ、全体的に角ばった印象をうける少年は、遠慮ない様子でその問いかけをした。
彼の名前は、本辻 廣太郎。一見、無骨で思慮に欠けてそうな風だが、面倒見がよく信頼のおける人物である。
「なんにもないよ。ただ︙、いや、何でもないんだ。お互い何も考えてないのかな。とにかく、僕からはなんにもできないよ」
そういったもう一方の少年は篠木 律。上背ばかりが高くて顔は青白く、いかにも不健康な様子である。引き結んだ唇はやすやすと開きそうもなく、他人に無愛想な印象を与えた。親しんだ友人は彼の真面目さや実直さを知っているが、生まれつきの臆病が交友関係を狭めているためおおかた損をしている。
「お前、そんな言い方はないだろ。どう見ても若狭は、いや、お前と若狭は想いあってるんだから。お前から告白すればいい話なんだよ。それがどうして」
「周りの奴らは面白がってればいいけどさあ。僕はそうもいかないんだよ。もし勘違いだったらどうすればいいんだ。気まずくたって若狭と会わなきゃいけないんだから」
本辻は傘を傾けて篠木を睨め上げる。
篠木は自身の足元を見つめ、水溜まりをうまく避けながら不恰好に歩いていた。呆然としたその視線に本辻は入っていない。
篠木の意気地のなさは今に始まったことではないが、今回ばかりはどうにかならないだろうか。
本辻は過去の篠木を追憶しつつ、不都合な事実を確信に近い形で思い起こした。
◇◇◇
恋愛というのは、始終語るに落ちるものである。
少なくとも僕の場合はそうであった。
恋情は語れば語るほど止めどなく溢れ出て、底のない井戸から水を汲み上げているかのような果てしない心地がする。
心のうちで激しく渦巻いている感情であっても、容易に発してはいけない。危険を鑑みて一旦は自制すべきである。
日頃の僕はそういう考えでいたから、その抑えようのない衝動を体験してしまったら否が応にも恋を自覚しないではいられなかった。
しかして恋の自覚は僕にとって不意な出来事であったため、周囲に語る上で誇張され事実を捻じ曲げられた可能性も捨てきれない。よって僕は、僕の感情が真に正しいものであると、あらゆる物語で語られる清廉で奥ゆかしい感情であるという確固たる証明を必要とした。
告白はその証明が終わった後でも決して遅くはないだろう。
僕が恋をした若狭 紅子は下級生でいながら同年代の少女たちより大人びていて、妙に達観した視点の持ち主だ。彼女が最も柔和な表情を見せるのは、友人と談笑しているときでなく花壇に咲く草花を愛でているときだった。彼女と美化委員の仕事で出会った僕は、そのことを他の誰よりも知っている。
若狭は放課後に大振りのじょうろを両手で大事そうに抱えて、煉瓦造りの花壇の隅から隅まで水を丁寧に注いでまわる。水滴の反射だけでない、その水を注ぐという行為そのものの神秘性、内包された妖しさに目を細めずにはいられなくなる。その光景はさながら幻想世界に住む妖精のように刹那的でいて、脆いガラス細工のように儚い。
以上を友人に語ればそのほとんどが失笑を漏らし、君は詩人だ、などといって皮肉った。しかし、その印象をただ美しい、かわいいと形容すると神聖さを欠いてしまうのだ。
僕は底の知れない恋愛という現象に空恐ろしさを感じながらも、好奇心の掻き立てられるままに、むしろその危うさにのめり込んでいった。
夕陽に照らされた階段を下るとき、暖められた空気が強張った体を優しく包み込む。滑らかに頬を撫ぜる風に安堵と高揚を誘う香りを本能的に感じ得る。足を床から離す瞬間の微かな浮遊感を堪能しつつ、緩やかに中庭へと歩を進める。
若狭は放課後になると毎日中庭へ水やりに行くため、そこに行けば彼女と確実に会うことができる。
僕と彼女が所属している美化委員は植物の世話について当番制を採っているが、教師の説明不足のせいで当番を遵守する者はほとんどいない。
そもそも、いつが自分の当番であるのか、知っている委員の方が珍しい。
しかし、今年の四月に委員になった僕は、頼まれたことは何としてもやらねば、という臆病をもとにした強迫観念にしたがって職員室を訪ねた。そこで委員会の実態と若狭の習慣について聞き、興味の赴くまま中庭へ通うようになったのだ。
このような経緯から、彼女と会うとき他の誰かに邪魔されることはほぼない。
つまり、中庭は僕と彼女の聖域であった。
しかし、今日は先客が訪れている。
僕はいち早く気付いて中庭に足を踏み入れる前に立ち止まり、戸から漏れ聞こえる音に耳をすませた。
唯一の出入り口であるガラス戸が開け放たれており、外から涼やかな風が吹き込んでいる。
体を少し乗り出して内部を覗くと一組の男女の姿が見えた。木々に隠れてはっきりと見えないが、おそらく女生徒の方は若狭だろう。
陰へと身を引いたとき、風鈴の音色のように軽やかな声が研ぎ澄まされた聴覚に響いた。
「何の用で来たんですか。篠木先輩ならまだ来てませんよ」
撥ねつけるようにきっぱりとしたこの口調は彼女に違いない。
盗み聞きは悪趣味だが、人が話しているところへ不躾に入っていく図太さはないので大人しく壁にもたれかかって待つことにする。
「今日はお前と話に来たんだよ、若狭。一体何を考えているのか聞くために」
「もうあなたと話すことなんてありませんよ、本辻先輩」
彼女が発したその名前に驚いて、思わず近くの窓を覗き込むと、確かに友人の本辻が立っている。
若狭と話していた男が本辻とわかると、彼に対する疑念と不信感が脳裏にもたげてきた。
本辻は僕に内緒で若狭と何を話すつもりなのだろうか。まさか僕の恋に横槍を入れようというつもりなのだろうか。
後ろめたさに胸が詰まるが、ここは一度落ち着いてこの疑惑の真偽を見極めなければならない。
窓から見える中庭の様子は先日雨に降られたせいだろうか、いつもの幻想性を弱めてもの寂しい雰囲気を醸し出している。露に濡れたツツジの葉に艶やかな色彩の蝶々がひらりと舞い降りる。その薄く頼りない翅を震わせながら、花柱の蜜を吸おうとしていた。彼女は傍らに花弁を広げる紫陽花には眼もくれずに、明瞭な煌びやかさをもつ極彩色の花園の上を優雅に飛び回る。
視界を縦横無尽に行き来する華麗な蝶々の舞は蠱惑的で、僕に残酷な欲望を呼び起こさせた。
忙しなく動く翅から鱗粉を残さず拭きとって、一生飛べなくなった生命を手中に収めたいという傲慢な考えだ。
「若狭は篠木が好きなんだろ。どうして好きだって伝えないんだ。悩んでる篠木が可哀想だろう」
「余計なお世話ですよ。篠木先輩から何を聞いたか知りませんが、あなたのお節介は迷惑なんですよ。他人の事情にいちいち突っかかってこないで下さい」
「去年、若狭はこの中庭に誰も入れなかった。作業中でも鍵を閉めてただろう。それなのに、篠木が来るようになってから急に開けておくようになったんだ」
「美化委員だったからです。当番をしに来た人は追い返しませんよ。それに、あなたのいう通りだったとしても、告白しないのは篠木先輩も同じじゃないですか。どうして私だけが責められなくちゃならないんですか」
「それは悪いと思ってるよ。だけど、俺はお前が告白しない理由が知りたいんだ。嫌なんだよ。二人が変な誤解でこのまま疎遠になるのは。だから知りたい。若狭は自分の感情に自信が持てない訳でも、篠木が断るかもと心配してる訳でもないだろ」
若狭は不愉快そうに顔をしかめると、諦念の交じった溜め息を吐き出した。
彼らの話ぶりからすると、本辻が若狭のもとへ訪れたのは一回や二回ではないのだろう。若狭は執拗に答えを求めてくる本辻に疲れた表情を見せていた。
「私が告白しないのは、あとになって、あいつが告白してきたからしぶしぶ付き合ってやった、といわせないためです。告白の責任を持ちたくないんです」
本辻は返答に窮したようでしばらく黙っていたが、納得できないといった風に若狭を見つめ返す。しかし彼女は、これ以上語ることはない、と言わんばかりに本辻を無視して、花壇周辺の雑草を手際よく引き抜いていった。
僕は最初、若狭が自分を好いていてくれたことに歓喜しないではいられなかったが、彼女の言葉を飲み込むにつれ徐々に不安を感じ始めた。その正体はまだ掴めないが、何かとても恐ろしい考えが潜んでいるという予感が疑いもなく浮かんできたのだ。
ところが、人間とは斯くも不思議な性質を持っているもので、一遍でも好奇心に憑かれてしまえば思考の流れを簡単には堰き止められない。思考という理性を象徴する行為でさえ完全に制御することはできない。
記憶は消えるが思索に終わりはなく、特に神経質な人間ほど止まるところを知らずに自滅してしまうのだ。
僕は若狭と本辻の会話を盗み聞きしてしまったあと、二人とどう接すればいいのか考えあぐね、怖気付いてしまった。結局その日は水やりを休ませてもらい、早めに自宅へ帰ることにした。
慣れきってしまった帰路の途中で、若狭が最後にいった言葉を解釈していく。
『私が告白しないのは、あとになって、あいつが告白してきたからしぶしぶ付き合ってやった、といわせないためです。告白の責任を持ちたくないんです』
これは、僕との間において優位な立場にたちたいということだろうか。例えば諍いの最中に、こうなったのはお前の告白のせいなのだから、お前が責任を負うべきだ、と糾弾する権利を得たいということだ。
僕だって自分の立場が悪くなることは望まないし、なるべく責任を負わずに友好関係を築いていきたいと思っている。けれども、醜い責任の押し付け合いをするくらいなら、彼女を尊重して僕が貶められる立場になった方がましだとも思う。
だがそこで一つ引っかかるのは若狭の感情である。
彼女は自分の好意を知られないように僕を騙していた。
それは、何が何でも自分の優位を獲得し、僕を蔑ろにしてやろう、という考えがあった証拠ではないだろうか。
若狭は将来の損得だけで告白を躊躇っていたようだが、もし僕がこれからもずっと告白を避け続けたらどうするつもりだったのだろう。僕との恋愛は諦めていたのだろうか。彼女にとって僕への恋情はその程度のものだったのだろうか。
僕は彼女のことなど一つも分かっていなかったのかもしれない。
僕に分かるのは彼女が表へ出しているほんの一面に過ぎなくて、その内に隠し持ついわゆる心だとか精神だとかいうものには一切触れることができないのだ。
それならば、僕が僕でいる限り、彼女を本当の意味で愛することはできない。彼女の全てを理解し、肯定して、優先していくことはできない。
僕たちは価値観も経験も、互いへの感情さえ雲泥の差だったのだから。
ふと気付く。
裏切られた。若狭にでなく、恋愛に。
世の中にある恋愛というものは信じられない。
何も求めず、ただ相手への好意を源にして、根拠にして、全てを捧げる。捧げることができる。恋愛とは、そういうものではなかったのか。
僕の感情は違う。
僕は彼女に同等の愛を求めてしまっている。愛とは無償で、与えられなくても与えるもので。与えなければならないものなのに。
僕が、他ならぬ僕自身が、恋愛という殻を割ってその中にあった醜い本性を暴いてしまった。
これはただの欲望だ。
理想像の押し付けだ。
子供が大人に憧れるときのような無知からくる幻想、妄想、勘違いであった。
僕が恋とか愛とかいう言葉で表していた、あの崇高な感情では決してない。
僕は焦燥に急き立てられて、周りの目を憚らずに無我夢中で走り出した。
足が幾度となくもつれて何回もコンクリートに転がったが、灼けるように熱くなった体を引きずりながら、感情のままに駆けていく。
自宅のドアを蹴破るように開けて階段を駆け上がり、自室の布団に潜り込んで息を殺した。激しく鳴る奥歯を噛み締め、ぶるぶると震える自身を搔き抱いて部屋の隅にうずくまった。
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