真夜中の住宅街に小気味好いヒールの音がこだましていた。漫然とした足取りのためか、足音が連続して鳴り響いたと思えば幾許かの間止まったりして、よろめきながら歩いていることが窺える。三日月の柔い灯りに照らされた女は、疲労の浮かんだ顔を俯かせて、型落ちしたスーツの袖を引き寄せた。冷たい風がほつれた髪を後方へ靡かせる。
女が手探りするような足取りで進んでいると、眩い光が前方に射し込んだ。そのときの
女の視界は水底から水面を覗いたときに似ていた。暗がりの中やっと見つけた灯台へ、海から這い上がるような心地で歩み出す。所在なげに浮き沈みを繰り返していた思考にようやく道標ができて、波打ち際の夜光虫の様に青白い灯火が胸の内に湧き出す心地だった。自然と足早になる。ヒールのせいで擦れた踵が滲むような熱を持っているが、最早痛みにはならなかった。どこか忙しなく、高揚した気分が身体を麻痺させて先程までの疲労を鈍らせたようだ。
「青木さん。いまお帰りですか」
背後から聞こえたこの声に女は俄かに振り返った。年齢の割には老成した印象の声が冷えた空気によく馴染んで耳に残る。声をかけた男はにこりとも笑わずに女を見ていた。尤も彼が口角を上げたところなど見たこともないのだが。女は社交辞令的な挨拶を返して早々にその場を立ち去ろうと考えた。
「ええ。今日は少し遅くなってしまったんです。久島さんはコンビニに来たんですか?」
「はい。青木さんもそうみたいですし、一緒に行きましょう」
そういって男は一層眩い光の中に入っていった。女は躊躇したがやはり同じように店へと滑り込む。この女と男は隣人であるが、数回顔を合わせたことがある程度の希薄な仲であった。故にこうして会う度、ぎこちない真似をしなければならない。女にはそれが苦痛だった。家が隣なのでこのままいけば帰宅するまでこの男と共にいることになるだろう。
女は諦念した様子で、商品の置かれた棚を見渡した。もともと目的なく寄ろうとしていたのでこれといって欲しいものはないが、せめて小腹を満たす何かを買おうとお馴染みの区画に足を伸ばした。会計を手早く済ませて外に出ると、先に出ていた男に手を振られる。
「それじゃ、帰りましょうか」
女には男の足取りがやけにゆったりとして感じられた。夜の街は静寂に包まれ、己と隣人の所作から生まれるものだけがその場から切り離されていた。動いている自分たちが異質な存在のようだった。通りはあまりに穏やかな時間を過ごしている。
「何を買ったんですか?」
唐突な男の言葉で静寂は破られた。女は男の顔を盗み見るが、暗がりではっきり見ることができない。相手の顔が見えないということに些か恐れを抱き、手提げ鞄の持ち手を強く握り締める。
「︙︙、夕食です」
彼女の袋の中には、黄色いパッケージに入った栄養補助食品、そしてコンビニの新作スイーツとして売っていた黒蜜わらび餅が入っている。栄養補給というよりは空腹を紛らわせる足しになる程度の食品だった。流石に正直なことを話す勇気はなかったため、誤魔化して答える。ビニール袋の揺れる音がやけに大きく耳に届いた。
「久島さんは何を買ったんですか?夜食、とかですかね」
そういうと、男は返答を渋って暫く黙っていた。女はきっと今も彼の表情は硬いままなのだろうと予想した。
「はい、無性にアイスが食べたくなってしまって。でも、いつもなら絶対に行かなかったと思います。なんだか今日だけ行きたくなったんです。それで青木さんと会えたから良かったんですけどね」
「そう、ですか?」
「はい、良かったです」
そこで女は初めて彼が笑っていることに気付いた。月光に晒された笑みはこの上なく無邪気であった。
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