星間より、兄弟の神

 ※本作は多分のクトゥルフ神話要素を含みます。

 本作における扱い。

 シュブ=ニグラス――マグナ・マテル。豊穣をもたらす山羊の女神。ハスターの妻。邪神の一柱。

 ハスター ――ロイガーとツァールの父。風を司る邪神。

 ロイガー ――双子神。弟の方。ハスターの子。

 ツァ―ル ――双子神。兄の方。ハスターの子。

 クトゥルフ――深淵に沈んだ司祭。魚人のような体に蛸のような頭部を持つ巨大な宇宙生物。ハスターの兄弟。ハスターとは敵対。

 ニャルラトホテプ――強大にして神にも気味悪がられる異色の神。その姿は本来一つの形を持たないといわれる。千の貌の神や無貌の神とも。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 人類は発展した。

 努力と研鑽、それから多大な犠牲を払って大きく霊長類としての才華を咲かせ続けた。

 千年経ち、二千年経ち、やがて――西暦三千年へと至った。

 誕生から数えればもっと長い期間なのだが、我々が文化や文明をはっきりと認識しだしたのはだいたいそれくらいだろう。

 けれども、そんなことは渦巻く銀河に浮かぶただ一つの星の陽炎に過ぎない。

 大いなる宇宙。光も届かない最果て。

 そこに蔓延るまさしく我々が思う神々のような存在からしてみれば、流星のような一瞬でしかない。

 そのはずなのに神は一瞬に拘泥した。人が一時の想いに焦がれるように、星の須臾、陽炎の間隙を神も愛した。

 愛というには気まぐれすぎる。憎悪というには温く淡い。

 あぁ、愛というには余りに無機質か。

 情無き情。愛亡き愛。

 

 言うなれば、外なる神が人の星に向けたのは愉楽と加虐を込めた――愛玩だった。

 神々が人間を巡って争い、傲慢に笑う。

 蒼天は崩れ、琥珀の星々は砕かれ、都市は硫酸霧に覆われ失墜する。

 これは終わりにて人類の再興が始まる物語。

 絶望で終わって、希望を見出す物語。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 虹色の風。屈折する光。空に向かう黒砂。幻影に飲まれた混沌の星。

 損なわれた名はアルデバラン――原義では牡牛座に属する巨大な恒星のこと。

 煌々と太陽よりもさんざめく光を発するのはヘリウムガスを自身の重みで核融合させていたからだ。

 周囲に五つの星を侍らせて、正に王家の星と呼ばれていたが、今となってはその輝きを曇らせている。噴煙のように膨張する、あるいはハエの軍隊のようにも蠢く黒砂が、アルデバランのあるべき姿を取り払った。だからもう、アルデバランは失われた。

 雄牛というよりは山羊の星に。

 彦星の牽牛は死に、黒山羊が根ざした。

 星の表面からその圏外へと舞い上がる黒砂、その中には奇形のアンモナイトの殻のような螺旋を描きながら上へとも下へとも伸びるように宮殿が浮遊している。

 その宮殿――アルデバラン周辺に浮かぶ星湖、ハリ湖の真上に存在することになぞらえてハリ宮殿――の中には悍ましき外から来た山羊の女帝がいた。

 このアルデバランを山羊の星へと変えた張本人。否、神。

 情無き情、愛亡き愛の筆頭。愛欲を司りて、偶然か愛ゆえかに豊穣の女神の座に就いた外神、シュブ=二グラス。

 吹雪のように凍てつく寝息をせせらぎのように静かに吐きながら、宮殿に漂う薔薇の香りに気を許してうたたねする彼女こそが悪夢の先駆けとなるものだ。

 いつも見る悪夢を現実と重ねながら自身の夢から発露した幻惑に踊らされる女神は今この瞬間までも、熱病よりも激しいそれに魘されながら、星々の神託を下そうと妊婦のような呻き声を上げて二人を呼び起こす。

 二人――二柱という方が正確であるか。

 そうやって彼女のご機嫌を取っているのもまた、人智を越えた神なのだから。

 黒き城の中でおおよそ人には理解できない言葉でその二柱は女神に祈りを捧げていた。

「イアール! ムナール! イア! イア! シュブ=ニグラス!」

「イムロクナルノイクロム! ノイクロム! ラジャーニー!」

 片方は黄緑色の衣と仮面を被った人のような姿、もう片方はそれより一回り小さい深緑色の衣と同じ仮面を被った姿をしている。

 彼らは地球の人類が保持していたどの言語とも違う異質で唸るような言葉を発している。爆発のような音にも、針が落ちるような静音にも聞こえる重なり声が、神秘的な管楽器のようである。

 悪魔のように粗暴なメロディが不規則な流れを連綿とつなぎ合わせ、魘される女帝の聴器官を噛みちぎる勢いでくすぐった。

「――――!」

 女帝は覚醒の悲鳴をあげる。その声は母なる神というのを忘れさせられるほどに幼く、暗闇に怯える子供のように寂しかった。

 夢から一時的とはいえ無理やり引き起こされる不快感は神にとって凄まじいらしい。

 

 やがて、ハリ宮殿の周りを浮いていた惑星群が悲鳴によって捻じられた重力場に引っぱられて、全てがハリ宮殿に向かって落ちていく。堕胎児の魂が母に辿り着こうとするかの如く、飛来した流星は回帰をしようとハリ宮殿に当たるが傷一つ付けれずに自身の方が崩壊していく。

 流星の雨が降り終わり、悲鳴も潰えた。

 宮殿の奥、魔の玉座より眠りについたものの声が残響のようにして暗く渡る。

「あぁ、あぁ何と冒涜的たるか、何と嘲笑されたるか。あの白き怪物が私を笑っている、月に吠えし忌々しき肉塊があぁあぁ滅びる!」

 女のようにも、男のようにも、あるいは蜥蜴がヒトを真似たような狂気じみた声だ。声と評するのも悍ましい。悪い夢でも見ているようにその声の主の情は癌のように歪に膨らんでいく。

 勿論それは地球の言語ではない。テレパシーのように反響が意味を持って精神に語りかけているようだ。不気味であるが、外宇宙の神である二柱にとっては茶飯事のこと。姿は見えないが、声を聞きつけ、二体の影がより伸びる。

「我らが女神、我らが偉大なるマグナ・マテルよ。ここに風の貴公子の子、ロイガーと」

「その兄弟、ツァールが罷り越しました」

 二体の影――星間宇宙における風の神の双子、ロイガーとツァールはそのムルムルと動く錆色の触手を、外套にも見える蛸のような皮膚の下から伸ばし、地面に這わせ、畏敬の念を示した。

 彼らは呼ばれたのだ。夢から手招くこの女神に。

 夢の中とはいえ観測・認識されてしまえばそれだけで女神に従わなければならなくなる呪縛があるのだ。

 とはいえシュブ=二グラスは双子神の父の妻の一人でもある。いや、彼らの父の方が夫の一人にすぎなかったのか。

 だから、少しくらいは力を貸す義理、というものがあるかもしれない。しかし、そんなのは人間な尺度なので真相はもっと名状し難い関係性ということもあり得るが。

 

「あぁ、あぁ、我が夫の子。我が子ではない淫猥な二柱の双神よ先ぶれなる者に呼び起こされた千万の神々が、狂気を集めようとしている。我々もそれに遅れてはならない

 女神は唸る。

 唸り声は星の内核で滞留するマグマのようにうねり、双子神の全身を揺さぶりかけた。それだけで星が当たっても罅すら入らなかったハリ宮殿の骨子をいともたやすくへし折ってしまいそうなほど、重圧はすさまじかった。どうしようもなく尊大で、自然の不条理な摂理のように抗いにくい力を目にし、耳にし、双子神は改めて深く頭を垂らした。

「蔓延する『万人聖書』を奪えよ耽溺させる『万人聖書』を壊せよより多くの狂気を集め、信仰となせ。滅びの狂気よりも、夢見る狂気よりも、深き愛の狂気こそが望ましいことを知らしめるのだあぁあぁ」

 残響の如きそれは夢現にそう言うと、また深き夢の中へと落ちるように微睡んだ。

 瞼を閉じて、悲鳴でやつれた喉を休ませて、さて宮殿のどこにあるともわからない揺り籠の中で彼女は胎児のように蹲って夢を見ようとする。二度と現実など見たくないと抗議するかのように。

 それが始まってから、本来ではありえないマイナスの波動を双子神は感じ取るのだった。重圧が抜けて宇宙が元に戻ろうと一瞬清らかに軽くなった気がした。

 眠るだけでここまで心持ちが軽くなってくれるとは。

 女神が眠ったことによってまたどこかの銀河に広大な穴が空くことになっても、十分なお釣りがくるほど彼女の眠りは宇宙にとっての豊穣をもたらすのだった。

 あぁ、だがもし。彼女が目を開くようなことがあれば、それは新たな観測。ビックバンでも起こってしまうだろうな。

 そんなことをどちらか一方が思いつつ、双子神は触手を地から離してゆっくりと立ち上がった。

 それから耳元で囁くように優しく、敬意を払って呟いた。

畏まりました、マグナ・マテルよ。必ずやあの星の狂気と信仰を貴女様のモノに」

「はいきっと。滅びゆく星に貴女様の愛を

 二柱の双子神はそれだけを言い残すと、音もなく姿を消した。

 渦巻く黒砂の城の中にあった異界は亡霊のように掻き消え、後には虚空と寒さだけが残された。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 二柱の神は次元を超えて、人智の届かない魔法の如き外法を使って門を海を泳ぐ。銀色の鏡面が幾重にも折り重なり、同時に透けてもいるように見えるバームクーヘン型の高次元の海。

 宮殿に流れ込んでいた薔薇のような香りの大本の匂いが吹き抜けては、空間がでたらめに溶け合い、また万華鏡のような非ユークリッド幾何学模様が何度も変化を繰り返していた。

「ロイガー

 弟よりも一回り大きく、深緑色の軟体を有する兄神――ツァールは人で言うところの不安げに、負の空間を歪曲させる次元の亀裂の中で、呟いた。その言葉は反響もせず、ドップラー効果を帯びて間延びすることもなく、平坦にロイガーに届いた。

「なんだ、ツァール」

 ロイガーは振り返ることもせず、ツァールの先を泳ぎ続ける。

 異次元の如き透けた虹の色彩の水流の中を流れている彼の色合いは、濁った翡翠鉱石のように不思議さを感じさせた。

「『万人聖書』とは一体何のことなのだろうか。女神さまはいつも眠りながら仰られるから、我々が知れることなど少なくて参ってしまうな」

行けばわかるのだろう。我々は手を尽くさねば、目覚められた時、どれほどのことをされたか知れたものではない。父上が愛した女神だからと、下僕にはなっているが、どうも我らとはかみ合わない」

「速く父上に帰ってきてほしいものだなあぁ、我らが父上、ハスター王。けれど、今は選べる道など一つしかない、か」

 ツァールは仮面に隠された顔を俯かせて、それ以上思案するのを放棄した。

 気分転換と座標のすり合わせのためにツァールは空間トンネルのカーブラインに引っかからないようにその身をスパイラルさせて、泳ぎ回った。彼の頭上からいれば超前衛的な傘が羽を伸ばして浮いているかのようだった。

「まぁともあれ、人間文化に関しては父上の信奉者どもから聞けばよいこと。とはいえ、信奉者すらも戯れのままに、愛玩して殺してしまうのだからはてさてどれほど残っていようかな」

「我らも似たようなもの。かつての信奉者たちはみな燃え尽き、死んでしまった。残る者どもは我らが死んだとも思っているらしい」

「ぐぅ! 忌まわしき千年前のアレか。地球に降り立った我らを嗅ぎつけたどこぞの星の戦士が焼きに来たのだったな! この体、焼かれたあの痛みを未だ鮮明に覚えているぞ! あぁ、やはりあんな星我が消し潰してやろう!」

「怖がるな、我が愛しき弟、ロイガーよ。もうそんな恐怖は起こりえない。だから、昔のことなど忘れよう。我らが女神の力をお借りすれば些末なこと」

ふん。まぁよい。それよりも、着いたらば風を纏え、大いなる風の貴公子の王子であることを見せつける」

「見せつける、か。我らが、風の貴公子——ハスターの子、ロイガーとツァールであることを人間どもは理解できるだろうか」

「理解? 下らんことを言うようになったな、ツァール。我らが集まるのは狂気と信仰理解などいらないではないか。人というものは理解できないものに発狂し、都合の良いものを信仰する。我らが少し姿を見せて誑かせば、人から正気を失わせることなど容易だ」

「そうではああそろそろだ。この辺の狭間が道になっている」

 ロイガーとツァールはその触手を空間に直線を引くように、滑らせてそこに切れ目を作った。そこを覗けば地球だった。

 ただし、上空三千メートルの高高度。二人は怖がることもなく、するりと飛び出し、真っ逆さまに落ちていった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 黒き雲の間を抜け落ちて、強い酸性雨の降る大地に降り立つ。

 外套のような皮膚は柔らかくも、角質的で、酸性雨程度ではダメージは受けない。二神は草木も生えない汚泥のように汚れた大地を見つめて、特に感傷に浸るわけでもないが、憐れむように言った。

「ふむ、随分と荒んだ様子だ。まぁ、千年も時がたてばこうはなるか。この星には元より絶海にあんな司祭が住んでいたのだ。これくらいは仕方ない。忌々しいルルイエにて眠る冒涜の怪物め」

「いくら我らが父上の敵対者とはいえ、余りな口ぶりはやがて己を蝕む毒とならん、ロイガー」

「ツァール、千年経て未だ眠る邪神を誰が怖がるというのだ。それこそ、この宇宙を作りし、全能にして白痴の神と同じ。どれほど力を持とうとも意味を成さない腐った黄金であるぞ」

「まぁ、旧支配者どものことはそのくらいにして、人間はどこにいる? 『万人聖書』なるものを奪うなり、壊すなりにしろ、人が居なければ意味は消え失せる。もしかしてここは人間の生息域外だったか?」

「いや、そうでもないらしい。見てみろ。うっすらと光が出ている。アレは人の灯す光だ。アレは人間の街だ。あそこに行けば、人が蟲のようにうじゃうじゃと犇めいている」

 触手の示す方向には灰色の有毒な煙に覆われた町があった。それは産業革命期のロンドンのようで、全体的に鉄臭く、灯りも綺麗とはいえなかった。

「探しに参るか」

「ついでに滅ぼしていくか?」

「無駄だ。ここは澱んだ神々が沈んでる。千年ちょっとも立てば、封印は解け、大きく滅ぼすことだろう。我らの命ぜられるところにこの星の守護はない。それに他の神々に勘づかれるのも面倒だ。忍んでいこう」

「はぁ詰まらぬが、元よりそう言う趣旨ではないしな」

 風のように、目にもとまらぬ速さで双子神は不可視となりて、飛ぶ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 渦巻く煙霧。その中からは確かに光や影が朧げに見えていた。

 しかし実態は正に流れる霧と同じで、町の影は常に千変万化に流れていく。

 まるで実態のつかめないスノードームのようだ。

 双子たちは訝しみながらも、その蛸のような体をねじ込み、突き抜ける。

 気流と言うにはあまりにも粘つき唸る違和感。

 全身をどろりとした抵抗の強い液体に付けているような感覚に襲われるも、その奥から何者かの手が双子たちを町の中に引き込んだ。

 煙の域を超えた名状し難き乳白色の海に引き込まれる。

 どことなく薔薇の匂いのする蝋の河の中のようだ。先ほど道代わりに使った次元より高次のどこか。

 そこに留まることはできず、流されていく。

 

 抜けたその先には

 近代。具体的には霧煙る十八世紀のロンドンの姿があった。

 古びた石レンガや木造の建物群。蒸気機関車がその煙突から煙を吐き出し、ずいぶんとアンティーク調な自動車――これも蒸気で稼働している――が跳梁跋扈している。

 まるで昔の世界に戻ったような、夢の中にいるようなそんな気分に双子はなった。

「千年経っても何も変わっていないだと?」

「そんなはず人間は、ある程度で進化をしなくなってしまう生物ではない外的要因か? それとも同族殺しでもしたのか?」

 神とはいえど、自分たちがいた時代は千年前。

 そうともすればもっと技術革新が起こっていても不思議ではないということを双子神ですら容易に想像できていた。

 ミャンマーの奥地、古代都市で信仰されたばかりについぞ信奉者の矮小人しか視界には入らなかったが、それでも文化は違えど発達具合というのは分かる。

 この光景は双子のような神にとっても異常に映った。

「おぉ、子供たちよ。見かけぬもの達であるな。どうした? メキシコからの移民であるか?」

 呆然と立ち尽くしていると一人の男に声を掛けられる。

 ボロボロの軍服に、和製の番傘、髭を蓄えた恰幅のいい中年の雄人間だ。

「子供? んなっ!? おい、ツァールこの格好はどういうことだ! 我ら、人になっているぞ!」

 男に言われて、ツァールの方に顔を見合わせたロイガーがそう叫んだ。

 言われてツァールが手を見てみれば、蛸足のような触手はなく、緑色の外套膜のような皮膚はビニール製のレインコートに早変わりし、その中に子供の顔が埋もれていることに気づいた。

 双子神は双子そのものになってしまっていた。

 ツァールは自分の手を見ながら、余りのことに絶句してしまった。

「人の子は人。何も間違ってはおらんぞ。もしかしなくとも、迫害された身か? なればもう大丈夫。この国の女王はお前たちを育むだろう。アメリカ合衆国皇帝ノートン一世が保証するのだから間違いない」

 双子たちにしてみれば、よくわからない人物であるが、この人物はこの異世界がモチーフとする十八世紀の時期に生きた幻想皇帝。

 ジョシュア・ノートン――帝政なき合衆国、アメリカで初代にして最後の皇帝となった、偉人であった。

 もしそのことに気づいていたのなら、よりこの事態のあべこべさに気づくことができたのだが。

「まさかこの町既に別の神が関与しているのか」

 千年後の世界での文明退化。名状し難き乳白の海。双子神の人間化。

 人間の脳みそに退化させられた双子でもまだギリギリそのような荒唐無稽なことができる邪神のことを記憶していた。

「このような悪趣味な事。それから、我らが女神が直接干渉できなかった原因など、ニャルラトホテプ彼の神しか」

 弟の口から出たニャルラトホテプの言葉に反応してノートン一世が感嘆する。

「ニャルラトホテプ殿を知っているのか! 殊勝な子供よな。その調子で励むといいぞ」

「なんだ? 貴様こそニャルラトホテプを知っているのか? 彼の神も自身を安売りするようになったらしいな」

「ふむ、皇帝に向かって貴様などという言葉を使ってはいけないぞ、子供よ。ニャルラトホテプ殿は有名であるからな。『万人聖書』の創造者、このチェロキー王国に革命をもたらした素晴らしき御仁よ」

 皇帝は腕を組んでまるで自分のことのように誇らしげに言う。

 悪しき濃霧に包まれた街の権威が河原の積み石よりも神聖なものとは到底思えないが、皇帝が嘘をついているような心の動きは双子神には感じられなかった。

「『万人聖書』か、女神の言う滅ぼすべき産物。彼の神が関わっていると言うならその啓示に偽りはないだろう。して、それは一体どのようなものなのか?」

「うん? 知らぬのか。それはまぁ、そうであろう」

 皇帝の喉に小骨が挟まる言い方に気性の荒いロイガーはこども眉を大袈裟に顰めて、爪を立てようとするが、ツァールがそれを手綱を握るように静止する。

 この兄弟は兄の方が理知的であるらしい。

「朕も完全には知らなんだが、一人一人に即した聖書を作る機械のことらしい。聖書とは大きく出たものだだがしかし、その名に相応しい救いをそのものにもたらしているらしい」

 なんとも如何わしい機械である。

 享楽主義で残忍、狡猾、英知を混沌と自身の興味のために使い潰す神、ニャルラトホテプがどうしたら人を救おうだなんて思うのだろうか。

 双子たちはそう思いつつ、皇帝を一切敬わない態度で尋ね続けた。

「救いとはまた滑稽な」

「人が祀る神など所詮現象あるいは愉楽だろうに」

「手厳しい子供じゃ。クリスチャンではなさそうだ。アステカ女神がお前達の母なのだろうかね」

 体内の時が十八世紀で静止している初代皇帝陛下は霧を抜けても見ることの叶わないメキシコと、眼前の移民の子供の荒みようを嘆く。

 とはいえ双子はメキシコからの移民ではないので、意図を汲み取ることなく悠々と続けた。

「アステカ女神なぞとは無縁だ。いや、蛇っぽいのとは会ったか? まぁいい。ニャルラトホテプとその機械は一体どこにある?」

「何と言ったかな。ニャルラトホテプ殿は奇特な方でな、どこぞの潰れた蝋人形館を改装して、工房にしているらしい。マダム・タッソー蠟人形館とかだったかうぅん、朕は帝都サンフランシスコの皇帝ゆえチェロキーにはまだ慣れなくてな。よって、道はこのもの達が案内するだろう」

 皇帝が二度ほど手を打つと物陰から二匹の白と黒のブチ模様の犬が二匹のそりのそりと出てきた。

「犬? 犬に案内させるのか?」

「そのものら、この町を守る優秀な番犬たちだ。このチェロキーを隅々まで知っている、安心してついていくがよい。子供たちをニャルラトホテプ殿の元まで送り届けてくれ」

 皇帝が二匹の犬の頭をなでると、二匹は尻尾を激しく振って頷くように首を振っていた。

 まるで、皇帝の言葉が分かるようであったが、双子はまたしても怪しんだ。

「ふん、犬も人も同じこと。もし役立たなければ、貴様を見つけ出しバラバラに引き裂いてやろう」

 そうやってロイガーが噛みつこうとしたところで、犬がいきなり走り出した。

 ツァールの方はすぐさま後を追ったが、ロイガーの方は呆気に取られて、その後を追わざる終えなかった。

「ふっはっはっは! それは怖いな。ともあれ異国の、遠い遠い国から来たりし、星のような子供たちよ、お前たちの人生がより良くあれと祈ってくぞ」

「それ、行くがいい! グッバイ!」

 あっという間に皇帝の姿はチェロキーの湧き出る霧と蒸気と排気煙に埋もれて、真っ白と、その影すら残さず見えなくなってしまった。

 濃霧の中、双子は犬の姿を見失わないようにその人の子となった身で全力で走るしかなかった。

変な奴だった。まぁ、だが、良い。奴を殺すのは最後にしておこう」

「あのロイガーが珍しいこともあるのだな」

「うるさい。あのニャルラトホテプが関与しているとなれば、相当まずい、というかめんどくさい事態なのだ。無駄口叩いてないで行くぞ」

 二人は濃霧の中を駆ける。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ギリギリと、不気味な鉄の音が響く。

 歯車か、それとも呻き声か。

 

 僅かな人民は太陽亡き天を仰ぎ続く。

 そこに何があるのか、それとも何もないがゆえか。

 蒸気が躍るようにそこらかしこから噴き出ては、町の形を不定形に覆い隠す。

 その中で響く歌は幾つもの言語が折り重なった不思議なもの。メロディーラインしか合わさらず、バラバラにやつれたように歌っている。

 狂ったような嬌声とでも、静謐な祝詞とでも取れるが、二人には関係になかった。

 しかし、どこを見ても歌の根源は見当たらない。

 人影のようなものは霧に浮かんで見えるものの、犬の行く先にはからんでいなかったので追うことはできなかった。

 しかし、嫌でも気づく。

 この霧の街には神々を信仰するものの気配が見当たらない。人間は他人を呪って生きるからこそ、時に狂気の邪神に手を出すというのに、ここには怨嗟も憎悪もない。

 ましてや逆の幸福でさえも

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 到着。

 生ぬるい風が鱗のない肌を擦る。

 『ニャルラトホテプの蝋人形館』

 マダム・タッソーの蝋人形館を後にしたというその建造物は少し傾きつつ、玉虫色の輝きを放っていた。

 マダム・タッソーの蝋人形館は千年前――十九世紀・イギリスに存在した奇妙な蝋人形博物館。多くの偉人の精巧な蝋人形のその不気味さと造形美に惹かれ、観光スポットの一つにもなっていた有名どころ。一説によると、その蝋人形の中の怪物の一つが冬眠していた未知の生物だったという都市伝説もあったそうだが、真相は分からず。

 それほど有名とはいえ、千年後の世界にまで存在するのはまずありえないとは思うのだが。

「ニャルラトホテプあの何を考えているのか分からない異星の神。どうして今になってこの町に、『万人聖書』なるおかしな産物とともにあるのか」

 人間の子供となったロイガーとツァールは排気を浴びて黒ずんだ灰色の犬に連れられて、館の前に辿り着いた。

 間違いなく、ニャルラトホテプなる神はそこに居る。そう思わせるほどの泡立つ混沌めいた不浄の気配があちらこちらから這い出る蟲のように発していた。

 ニャルラトホテプ、とは。

 千より夥しき性質を持つがゆえに、貌のない神と呼ばれる混沌とした神。

 時に優しく、時に冷酷で、時に人のようで、時に悪魔のようで――そういう気まぐれな神だ。

 とはいえ、その力はロイガー、ツァールなど到底足元にも及ばぬ至高の領域にあり、二柱が支える地母神、シュブ=二グラスと同等かそれ以上の力を持っているのは明白だった。

「聖書はあの神が人間に与えたのだろうさ。千の貌を持つ神として、砂丘の地にて信仰されていた書物の神もやつの姿の一つという。なればこそ、やつこそが聖書を綴る機械、『万人聖書』なのかもしれんなぁ。まぁ、仮説に仮説を乗せただけだ」

「しかして、何故このように人間の文字で己の真名を明かすのか、我々のような外宇宙のモノであれば分かるように工夫されているのがまた不可思議で気に入らない」

 店を取り囲む五角形の門。

 螺旋を描くように左巻きに捻じれ、そのねじれの上に人間の言葉で『ニャルラトホテプ』とこれ見よがしに書きまくられている。

 チェロキー語、英語、中国語、チェコ語、エスペラント語、日本語。

 万人に威光をこれでもかと振りまくように、マイナー言語や滅びた言語、人工的に作られた言語に至るまで所狭しと羅列されている上に、それらが宇宙より飛来した二柱にも分かるように術が掛かっている。

「これも理解など無駄、無為。何せ相手は外なる神。我らが女神と同じ部類の神ぞ。我らが父上、風の神ハスターとも比べて格が違う。外なる神、この宇宙の外より干渉する神、理にない神など我らが理解を示す事こそ、発狂だ」

「であれば、我らは今から狂いに行くということになるな」

 ツァールは――久方ぶりに死を覚悟した。

 その顔に笑みも、絶望も、涙もない。それがあるべき定めだと、受け入れた達観した子供の顔。

 それが弟にどのように映るか。

 小さな手が無力を嘆くように強く握り込まれる。

「あぁ、そうだとも。狂ってもなお我らは女神のために動かねばならない。我らは堆肥、我らは石塔、我らは人大局を見たときに我らは人に変わらないのだ。腹立たしいがな、これほどの侮辱はいつか行くぞ、ツァール」

 ロイガーは初めて勇気というモノを振り絞った。

 勇気などなくても、惰性のうちに全てが終わっていたころとは全くの異次元に飛び込むのだ。

 それは人の身であろうとも、神の身であろうとも、恐ろしい。

(今は、今は忍び耐えるしかない)

 ギギィ、と年を取ったオノマトペが暗闇の中に響く。

 二柱は土足で上がり込む。扉をぶっきらぼうに閉めるとわずかに世界を照らしていた光がなくなり、完全な暗闇に包まれる。

 暗黒などというのは怖がるものではない。子供の姿、人間の脳と目に入れ替えられてもそう思う。

 宇宙を揺蕩えば常にさらされる脅威と隣り合わせなのは呼吸を吸うよりも当たり前のこと。

 たとえ、暗闇の奥を這う混沌が牙を剥こうとも、その可能性を考慮はしない。

「いるのでしょう? ニャルラトホテプ様、このような馬鹿げた悪戯ができるのは貴方様しかおりますまい。暗黒のファラオッ! ニャルラトホテプ! その姿をここに! ニャル・シュタン! ニャル・ガシャンナ!」

 癇癪を起した子供のように苛立ちながら、ツァールは祈りの言葉を雑に唱える。

 すると、館内にぽつりぽつりと火の明かりが灯っていく。壁に掛かったランタン風の蝋燭がかってに発火し、影絵を描くように光を漏らすのだった。

 そして、その奥に――奇々怪々な骨の標本どもや模型どもの飾られた展示空間、その奥に上がる階段にソレは聳え立っていた。

 白き三角錐のような有機的な肉の塊、拍動や蠢動は感じられないが、明らかに存在感を放っている。

 その三角錐の下からはオウムガイのような触手が柵や柱に絡まっていた。

 それはただのオブジェではない、れっきとした神。外なる神だ。

「五月蠅い。煩わしい――余は今微睡んでいる。宇宙より飛来する微風何するものぞ。くだらぬ、つまらぬ。クトゥグアの使徒でないからと、見逃してやるのは今のうちだけだ。余はとても移ろ気、気まぐれに殺すぞ?」

 触手の生えた白き巨大な三角錐の怪物――なんとも醜悪なその有機物こそが千の貌を持つニャルラトホテプ神だったというのだ。

 二柱にはその存在の強大さが一瞬にして本能単位で分かった。さっきまでの態度を改めて、冷汗を垂らしながらゆっくり探るように話を進める。

「我らはシュブ=二グラス様よりの使いでございます。貴方様とてあの女神の使いとなれば、ただ無視することはできないはず」

「――ふむ、面白い。いいだろう。あの魘されるだけの女神が一体どのような愚かしく、偏屈な戯言を述べたというのだ?」

 興味を持ったのか柱はぐるりと半回転し、肉の裏面が現れる。そこには十に及ぶ人の頭ほどの赤い眼球が不規則に配置されていた。禍々しく、人が見れば軽く発狂死するほどの冒涜的な外見だ。

 それの眼球が一斉にロイガーとツァールに向いて、威圧する。

「その前に、ここが一体どのような場所なのか御教え願いますか?」

 臆せずにツァールが畏まって質問を投げかける。

 ニャルラトホテプは触手をぶるりと震わせた。

「ここ? ここは余の神殿――邪神と呼ばれ続けてきたのだから伏魔殿とでもいう方が適切であろうか。まぁよい、人類館の名を冠する所よ。あらゆる国の面白く、珍妙な人間が飾ってあるのだ。そこに立っているのはP・T・バーナム、希代のエンターテイナーだ。そっちは則天武后、残酷な王女よ。ついで左が織田信長、特にこの信長が余のお気に入りであってな」

 子供が玩具で遊ぶように、ニャルラトホテプはそのアナコンダのような触手を使って展示されていた蝋人形の幾つかを持ち上げて見せる。

 それらはとても精巧につくられており、遠めから見れば本物の人間と見紛うほどの業物であった。

「もう分かりました、お戯れはおやめください。そういうことではなく、我らはこの異空に入る瞬間にこの身はこのように穢れた人の子になってしまったのですよ。一体どう説明なさる」

「良いではないか。人でも。余から見れば貴様らも、人もシャッガイの昆虫も並べて同じである。しかし、小さいものには小さいものなりの『プライド』があるようだな。クク、ククククク」

 趣味の悪い邪神の瞳孔は持ち上げられた数々の偉人にしか向かず、二柱を見る目は十個の中の一つたりともなかった。それに対して我慢の限界が来たのか、ロイガーが前に出ようとしたが、ツァールがソレを腕を引っ張って阻止した。

「外からの何かが入ってきたときのための罠だ。それが景観を乱さないために人間にしているのと手間をかけないためのな」

「それでも、人間にさせられるのは苦痛であるあります」

「苦痛とは大げさな――お前たちは人というのを見くびっているな。確かに愚かだ、確かに矮小だ。お前たちですらそう感じるのだろう?」

「えぇ、自身の作った機械に救いを求めるほどの馬鹿。自分で怖がり、自分で慰める無意味な永久機関こそ彼らです」

 ツァールは目一杯当て擦りするように皮肉いっぱいにニャルラとホテプが肩を持つ人間の評価をこき下ろした。

 ニャルラトホテプは機嫌を崩すこともなく、淡々とそんな発言どこ行く風というように自説を話し続ける。

「けれど、だからこそ、アレはアレで面白いのだ。他の惑星の生き物よりも発達が遅く、技術レベルも甚だしい。守ってやりたいと思うだろう?」

 ただの白き柱でもその眼が慈愛で歪んでいるのが分かる。

 自分のことを至高の存在で、それ以外を奈落の如く見下した典型的な外なる神の態度。

 どこか自分たちと似て傲慢でありながら、その全く共感できない価値観にロイガー反吐が出る思いだった。

「は?」

「分からぬか。要は愛玩であるよ」

 情無き情。愛亡き愛。

 すなわち愛玩。

「お前たちだってこの星に信奉者を抱えたはずだ。必死に媚びる姿、あやつらは最初から対等な交渉などできないということだけは分かっている。それは他の惑星の中途半端な虫どもより、よっぽどに可愛げがある」

「はぁでは、我らを人にしたのもそういう『可愛げ』を持たせるためですか?」

 ツァールは人間となった五指のついた腕を嫌悪しながら振る。

 人間の価値観で言えば、いきなり動物にさせられたようなものなのだ。

 それを動じずに、嫌わずにいる方が難しいのは万物万象にとって共通だろう。

 しかし、白き柱ニャルラトホテプは特に憐れに思うこともなく、ツァールの予想を否定する。

「いや、全くそうではない。人にした方が処理しやすい工程があるのでな。『万人聖書』の型にはまるのが人類だけなのだ」

「その肉体で処理など一番効率が悪い部門でしょうに

 ロイガーが聞こえるか聞こえないかの瀬戸際な声で刺々しくいった。ニャルラトホテプが気分を害した様子はない。また眠り眼に戻り始めていた。

「さて、余はあらかたお前どもの問いかけに答えを与えてやっただろう。次はこちらの番だ。あの千匹の仔孕みし山羊はなんと申したか? まぁ、余の邪魔になることだろうがな」

 ここで言うべきか、逡巡する。

 嘘をついても真実を述べても、半々の確率でこの神の逆鱗に触れそうだ。

 使いとはいえ、『万人聖書』の創造主の前でそれを破壊するなどと言えば、反感や怒りを買わないわけがない。

 でも、嘘すらもこの神の前では通用しないだろう。

 ツァールは意を決して、震える声で言う。

「それは『万人聖書』を破壊せよ、と

 少しの間、冬の空の下にでも放り出されたかのような覇気を感じて、体が縮み上がる思いだった。

 

 ギョロギョロと彼の神は豊富な赤き眼を蠢動させて、やがてどこぞとから大地の底から震わせるような笑い声を響かせた。

「ふは、フハハハハハッ! あの山羊女め、予言はできても知略がないのが可笑しいよなぁ。数年前に来訪したハスターの目的が分かったが、憐れよ憐れ。お前たちもあの黄色の王子の子なのだろう。山羊の匂いがしないが、どこか嗅いだことはある。羊飼いの匂いだ。それにしても、今更になってハスターの増援を呼ぶとは無意味な。囚われの身とでも勘違いしたのだろうが、そんなうまい話があるわけもなかろうて」

 どれだけ愚弄されようとも我慢して黙っていたロイガーがハスター自分の父のことを持ち出されて、顔を赤く染め上げて叫ぶ。

「父上に何をしたッ!?」

 肉食獣のように犬歯をむき出しにして、そう吠えるも、少年の姿故にまったくもって威圧されない。

 その様子を面白く思ってか、ニャルラトホテプの眼が一斉に上弦の月のように歪む。

「予想がつかないか?」

 ロイガーは怒りで思考能力を失っているが、ツァールには分かる。

 

 ――あぁ、もう我らが父はあの禍々しい白き神に敗れ去ったのだ、と。

 そしてそれを裏付けるようにゆっくりとニャルラトホテプが話し出す。自分の犯した罪を飄々と告白する異常者のように享楽的に。

「簡単なことよ、お前たちと同じく人間にしてやったわ。お前たちと同じくこの館を訪れ、お前たちと同じく、余と問答を楽しんだ。その後――『万人聖書』に掛けられ、聖書なったのだ」

「貴様ッ!」

 今にもとびかかりそうになるロイガーの肩をツァールは重く引いて、その行動を阻止した。

「我は救世主だ。廃惑星となったこの地球、この人類文明最期の王! その知性を邪魔するものは何人もドリームランドに送ってやるつもりなのだよ」

 驕り高ぶった怪物の高揚した咆哮が館内に響き渡る。

「とうとう本性を表し始めたか、バケモノめ!」

「それはお互い様だろう。だが決定的に違うのは我に本性などないぞ。千の貌全てが真である故な」

 この肉柱のニャルラトホテプの他に後千を超えて、万を超えた別のニャルラトホテプ達がまた存在する。

 そしてそれらは各々独立したニャルラトホテプなのだ。

 わざわざ偽る必要もないのなら、全て各自の理念通りに動くまで。それがニャルラトホテプ同士の争いになっても。

 それがニャルラトホテプという神だ。

「衆生全てを救うのに読むという行為ではあまりにお粗末だ。五感から得られる情報で真の安らぎは人間には訪れない。ゆえに、そこから解放するのが『万人聖書』だ。人間の脳だけを取り出し、缶詰にするのだ。そして、特殊な電流と振動を脳に加え続け、確実に脳幹を揺さぶり、思うがままの夢を見せる。これぞ望んだ現実を見せる正に人類救済の機械だ」

 人類が持たざる力は持っていても、このようにただの異形にして偉業の怪物でしかなかったのだ。

 ニャルラトホテプはまるで自分の行いが絶世の大発見、大偉業かのようにふんぞり返って話した。

 その様子を見て、二柱は呆れてものも言えない。

 思い通りに行く夢の世界と現実を挿げ替えたところでそれは偽物でしかない。よくできたレプリカ。

 何か些末なことであればいざ知らず、自分の現実さえ偽物にしてしまおうとは。

 それは現実が上手くいかずに挫折したものが見るようなただの現実逃避に他ならない。それを仮にも上位の存在が、強大な外なる神が、持ち出すというのは陳腐だ。

 二柱の価値観としては笑い話にもできないさもしい発想であった。

「人類救済の機械? 馬鹿げたことをなさる。加えて原初生物のように機能を削ぎ落し、コストやデメリットを斬るのが浅ましき考えであるなど、知恵者としての顔も持ち合わせる貴方ならお分かりなはず」

 ツァールの諭すような発言を、ニャルラトホテプは笑う。

「はははッ! もちろん理解している。無論だ。けれど、人間というのは絶望的な生き物なのだ。これ以上進化が望めなかったのだ。自身の想像を具現化することによって、機能を延長・拡張するという特徴が素晴らしい生き物だったが、ある時にシンギュラリティが発生した。期待外れともいうかな」

「期待はずれ? 寧ろ我に何かを期待するほど愚かというのもがっかりだ。彼らはとうとう自分の発明したものに負けたのだよ。延長に延長を重ねた新たなる創造物はソレ一つで人類というスケールをカバーできてしまった」

「主従の逆転あぁ、主を超える従を作成してしまっての滅び、或いは霊長の座の変化」

「この千年でそういうトリガーとしての技術の基盤や材料は揃っていた。それがあの瞬間偶然すべて組み合わさり、爆発したのだ。呆気なかったぞ、星が死ぬより呆気なかった。個人個人としては強さや優秀なところがあれど、『人類』は優秀ではないからな」

 肩を抑えられていたロイガーが手を振りほどいて、ニャルラトホテプに敵意を向けながら言った。

「だが、だがだぞッ! ニャルラトホテプッ! 貴様が、我らが父上をそのような脳缶にした理由はなんだ!」

「理由なら明白であろう。お前たちと同じ、シュブ=二グラスに命令され、我が人類救済の邪魔をしようとした。だから、脳みそを取り出し、缶に詰めた。そして、人間化させたのは単に『万人聖書』に掛けるのに楽だった、それだけだ」

 答えを淡々と感情のないロボットのように言い終わると目が一つずつ閉じていく。

 まるで冬眠に入る動物のようにどうやら自分でさえも、願った夢の世界に行きそうである。

 寝ぼけ眼の最中、どこから発声されているか分からない声にも眠気が加わっていくのが分かる。

「――さて、種明かしも終わったところだし、もう余はやることはない。お前たちはまだ邪魔するか?」

「クッでは、父上と我らを元の姿に戻せ。それさえ済めばもう帰る。父上がいなかったからこそ、我らも代用として、父上の妻だというあの女神に仕えていたにすぎん。父上の所在が分かった今、もうようなしだ」

 ロイガーはイラつきを抑えながら、どこかの女神のように眠りかけのニャルラトホテプを睨む。

 ロイガーやツァールは家族を大切には思ってない。けれども、自分の上の者や同じ立場の者として、仲間意識はある。挿げ替えられない者としての認識がある。

 だから、傲慢にも、不遜にも、その存在を意地でも取り戻さねばと思った。半ば義務的に。

 けれど、返ってきた答えは、絶望的なものだった。

「それは無理だ。余はお前たちの元の姿とやらを知らん。そもそもどういった種族なのかもな」

「出来ないというのかッ!」

 怒りに任せて、怒鳴りつける。

「出来ないな。余は万能ではない」

 怒鳴り声など聞こえなかったかのように無情にも、ピシャリと言い放った。

「では一生このままなのか!? 嘘だろう! 人間の肉体のまま生きろというのか? 最悪だ、最悪だ!」

 ロイガーは顔の皮膚をはがそうと、躍起になって爪で引っかいたり叩いたりして何とか汚らわしい肉体から抜け出そうと暴れまわる。

 その騒音を煩わしく思ったのか、ニャルラトホテプは一本の触手を撓ませながら伸ばすと、めんどくさそうに呟いた。

「そんなに嫌か。はぁ。ではほら、ちこう寄れ」

「何だ? 方法がやはりあるのか?」

 ロイガーが数歩前にでたその瞬間、蜂の下腹部のように腫れた針のついた触手が額を穿った。

 強靭な力が額に働き、その体は簡単につるされてしまう。

「あ、がッ」

 声帯が跳ね上がるような呻き声。

 とっさにツァールが前に出て取り返そうとするが、届かない。

「ロイガーに何をするッ!? やめろ! やめてくれッ!」

 ツァールの叫びも虚しいままに、穿った触手とは別の触手が頭を取り囲み、ロイガーを人形のように無機質に解体していく。

 腕や脚はもがれ、頭蓋からは脳みそがプリンのように滑り落ちるのを見て、ツァールは絶句するしかなかった。

「まぁ、見ておれ。このように取り出した脳みそをこの溶液に満ちた特別なカプセルに入れ、このプラグを刺して蓋を閉じる。そして、最後にはそこのオルガンのような機械――『万人聖書』にセットする。これで終わりだ。なぁ? 楽であろう?」

 缶に入ったロイガーの脳みそをにセットすると、パイプオルガン――『万人聖書』が稼働し、謎の不協和音が響きだす。それはいつか聞いたこともある音色でありながら、一つは一際大きく泣き叫ぶかのような音が混ざっていた。

 まるで自分の弟ツァールが泣き叫んでいるような音色に動けなくなってしまっていた。

「あ、あぁ!」

「こうして人類は永遠に幸福を享受し、種としての永続を約束される。うむ! 完全なる救い! 実に素晴らしいな! さて、お前はどうする? この町にはもうまともな人類はいないが、余の作り出した偉人人形どもと暮らすもよし、脳缶だけになるもよしだ。そのくらいは許してやろう」

 心底自分の行いに心酔し、笑いかける。

 絶望。

 ここに幸福は見いだせない。恐怖や畏敬、そして堕落だけが集まった行き止まりの集積場だ。

 勝ち目はなく、逆に死を与えられるわけもない。

 ここにある幸福というのはあの英知を手にしてなお愚かな神の作った『万人聖書』なる物しかない。

 行くも戻るも――ただこの選択肢の前にて留まることが唯一の安らぎであった。

ぁ」

「どっちを選ぶ? この廃都市チェロキーに住むか、永遠の幸福を享受するか。神はどちらでもいい」

 蝋燭の光は全て消え去り、最後に残ったのはニャルラトホテプの赤き単眼。

 暗中にて禍々しく輝き、ようやくまっすぐとツァールの方を向く。

 力なく、消え去りそうなツァールを囲むように何本もの触手がウツボのように気配を忍ばせている。

 もう、答える気力すらもない。

 最後に思い出したのは――弟ロイガーだった。

では――

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 濃霧の空が青く見える。

 夜空なのか、行きすぎた曇天なのか。

 見ているだけで吐瀉物を胃からひっくり返したくなるほど気持ち悪い空だ。

「おぉ、子供。また会ったな。片割れは見当たらないようだがニャルラトホテプ殿には会えたかね?」

 ふらふらと歩いていたところを先ほどの皇帝に見つかった。

 立ち止まり近場の階段に座り込む、一緒になって皇帝も隣に座る。

 見ゆる白霧の先は見通せない。

「あぁ会えたとも」

「素晴らしい大司祭だ。どこか人間離れしているようにも見えるのは矢張り天才の証だな」

 讃える言葉に嘘偽りはない。

なぁ」

「なんだ?」

「お前たち人間の幸福とは一体何なのだ? 人形には分からないかもしれないが」

 皇帝の瞳を覗き込めば分かった。

 それは青い硝子玉なのだ。節くれだった手はゴム製で、髭は合成繊維。

 生きた人形なのだ。もしくはそういう絡繰りか。

 しかし、当の本人は意味を理解してないように首を傾げて、太い眉を片方持ち上げる。

「人形? 何のことだか。まぁ、良い。人間全体の幸せを朕の物差しで測るのは流石にできないが、それでも朕の幸せは、フランシスコの臣民が健やかに明日を生きることであろう。それは皇帝であるから願うのではないぞ、親を愛するように、子を愛するように、そう思うのだ」

「明日を、生きるかその明日とやらに何を求めているのか、我には分からない」

「生きること自体が素晴らしいだろう。それ以上望むことなしだ。万人は好きに生きればよい!」

 腕を組み得意げに頷く皇帝。

 ツァールは人となった足をぶらぶらと放り投げながら、問答を続ける。

「ふっでは、死にながらに永遠の幸福を享受することなどは皇帝殿には、不幸せだということだな」

 沈黙。

 瞳があちらをむいたり忙しくなる。

 顎に手をかけて熟考し、やがて皇帝は顔を上げた。

「子よ、それは天国だろう」

「天国? 天国とは一体なんだ?」

 アルデバランにいたツァールにとっては分からない概念である。

 さきほど皇帝が首を傾げていたのをまねて、自分の首も傾けて見せる。

「天国とはこの世を真っ当に生きた者のみがいける場所だ。あぁ、その天命を全うして行くのであれば、それも喜ばしいことだろう。しかし、最初から執着すべき場所ではないぞ。現世での苦労を癒やすのが天国なのだ、それを最初から行こうなどとは――それは堕落でしかない」

 皇帝の言葉ツァールにとっては難しいものであった。大分噛み砕かれてはいたが、価値観も種族も色々とかけ離れた二者の間には深き渓谷のような溝がある。

 

 けど、それでも皇帝の言いたいことをツァールは理解した。

 天国とは永遠の幸せを享受される場、それを生きているうちから貪ろうというのは堕落。

 そう、アレは間違っていることだ。アレに抗わないことこそ間違っていた。

 もしあの場で我が『万人聖書』で脳缶にされて、都合のいい夢を見続けていたら、それは確かに幸福に感じたかもしれない。けれど、人にもあるような原初の誇りというのを失っていた。

 ここに来てツァールは初めて救いを見た。皇帝ジョシュア・ノートンの言葉に胸を打たれた。

 階段の上で立ち上がり、見えない晴れない空を見上げる。重い灰色をした空を見返す。

決めたよ。我は人類を再興させる。奴からしてみれば、まともではない人類を率いて、『万人聖書』を破壊する」

「ほぅ何故?」

「一つは復讐。もう一つは人に成り下がったのだから、人らしい幸せを求めようと思ってな。最後の一つは――奪われた弟と父を返してもらうためだ」

 失われた黄衣の王の威厳の復権。

 王は邪悪なる皇太子ハスター、側近は我ら双子神ロイガーとツァールそれから長兄イタクァ、そしてその部下何千何万のビヤーキーたちの軍勢を想起する。

 その夢を奪い返すために。万人のための永遠の幸福を破壊するとツァールは堅く決意した。

「だが、相手は大天才ニャルラトホテプ殿。どうするというのだね?」

「さてな。しかし言えるのは、我らが人間を過小評価していたように、あの肉柱も過小評価している。そこに付け入る隙はある」

「面白いな。それも良い! 正直、聖書の名を騙っているのが気に食わなかった!」

「よし、子よ。そう決めたのなら、まずは旗を用意せよ。人民を集めるのだ! 戦争に行くんじゃない! 新たなる平和を勝ち取るための革命を開始するのだ!」

 よく響く声が頂上より響き渡り、階段下の広場にて屈んでいる廃人たちすらも必然のように上を見上げる。

「幼子の復讐はこれより始まった! 彼の大天才ニャルラトホテプを打ち滅ぼさんとする前代未聞の下克上! おぉ、これはフィニアスのサーカスよりも面白いかもしれんな!」

 豪勢に笑い、勝利すら確固たるものだと信じるその顔にツァールも人間らしい微笑みを浮かべた。

 続くは一人の人となり果てた神の子による弟を奪い返す艱難辛苦、茨の如き復讐譚。

 あらゆる人を犠牲にし、その屍を素足で踏み越え、丘へと至る。

 さて、その物語はまた――別の物語である。

 

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