地縛霊

夜の学校という所は不気味だけれど、少なからずワクワクするらしい。確かにたまに忘れ物をして、誰もいない、しーんとした薄暗い学校を歩く時間は非日常感があってちょっと楽しかったと、夜の学校の廊下を歩きながらぼんやり回想した。

残念ながら今の俺は、夜の学校にいるこの状況に特にワクワクも恐怖も感じていない。むしろ全てが見慣れた光景で、家に帰る道を無意識に辿っているような気分だ。突然ガタガタ揺れ始めると言われている窓も、クラスメイト達が夜には段数が変わると噂している階段も、異世界に繋がっていて終わりが見えなくなると恐れられているこの廊下も、現在の俺にとっては何もかも背景でしかない。いつの間にか、背景になってしまった。何度も経験する非日常は、やがて日常になるのだ。

しかしこんな日常があるだろうか。俺のクラスの教室の扉の前に立ち、少しの間そこに留まって深めの呼吸をした。教室には誰もいないはずなのに、何だか緊張する。俺はゆっくりと扉をスライドさせたが、ガラガラという音がよく響いた。

その音を聞いて俺の来訪に気付いたのか、誰もいないはずの教室の窓際の席に人影が現れた。

ああやっぱりいるんだ。

俺は諦めのような安心のような感想を心の中で呟いて、その人型の影に近付いていく。俺が目の前までやってくると、ただの影だったそれがついに正体を現した。大人になりたてといった感じの若者。その姿は時が経っても、全く変わらない。いつでも、いつまでも、彼は俺の知っている彼のまんまだただひとつ、色彩がないことを除いて。

兄貴」

俺はなるべく自然に聞こえるように、彼にそう呼びかけた。すると、兄貴は読んでいた化学の教科書から目を離して微笑した。その微笑が俺の持つイメージにぴったり一致しているが故に、彩色のない彼の姿が酷く哀しい。

「また来たのか」

モノクロの兄貴は、俺と目を合わせながらそう言った。有り得ない光景だ。でも少なくとも俺の目には見えているのだから、俺は信じるしかない。毎回のことだからだいぶ慣れたけれど、これだけはどんなに慣れても流石に日常とは呼べないだろう。

「だって授業、全然ついていけねぇし」

「ついていこうとしてないだけだろ」

兄貴は前の席に座った俺の言い訳を笑いながら一蹴した。返す言葉もないので、俺は口を噤んだ。兄貴は図星を突かれて黙る俺の様子など気にもとめずに、教科書を閉じて机の中に戻した。静かな教室に、兄貴が教科書を置く音がやけに大きく響いた。

「それで、質問は?」

兄貴は早速本題を尋ねてきた。俺は無言で机の中を漁り、授業中以外あまり取り出すことがない為に汚れひとつついていないノートを引っ張り出して兄貴に手渡した。それから、若干くしゃくしゃになったプリントも何枚か一緒にして差し出した。兄貴は困惑した様子でそれらを受け取って苦笑いした。

「えまさか、これ全部?」

「うん」

真顔で頷く俺に、兄貴はプリントの皺を丁寧に伸ばしながらため息をついた。

「分かったよじゃあ、問一からな」

俺は問題を目で辿り始めた兄貴を見て、幽霊って脳みそとかあるのだろうか、と何となく疑問に思った。

成績の悪かった長男の名門大学受験結果。

彼の番号が、そこに載っていた。

紛れもない合格の報せ。

それを確認した母は、その場に泣き崩れた。そして拭うこともせず大粒の涙を流し続けた。そんな母の震える肩に、傍にいた父が優しく両手を添えた。そうする父の背中も、同じように小刻みに震えているように見えた。長女も母の傍に寄り、共に涙した。

次男はその光景を、後ろの離れた位置から呆然と眺めていた。

本当ならこの上なく喜ばしい幸福な光景だ。しかし、そこを見つめる俺の目には喜びだとか幸福だとかいう言葉はチラ映りもしなかった。

何故なら兄貴がいないからだ。

お世辞にも頭が良いとは言えない高校に在学していた兄貴が、血反吐を吐くような思いで勝ち取った狭き門の通行手形。それを受けとれる資格のあるただ唯一の人物が、もうこの世にはいなかったからだ。

俺は無意識に目に溜まっていく何かを感じながら、滲んでいく視界の中に見える母の涙を見つめた。兄貴が第一志望に合格した暁に浴びせよう、と俺が不器用な手でハサミを使い紙を切り刻んで作った紙吹雪が、母の目からとめどなく溢れていく涙に重なった。それはまるで、兄貴が必死の思いで積み上げた努力や、彼に向けられるはずだった祝福が零れ落ちてなくなっていってしまうように見えたいや、なくなったのは兄貴の努力じゃない。

消えてなくなったのは兄貴という人間の全てだ。

そう気付いたその瞬間から、俺は『頑張る』ことが出来なくなってしまった。

で、ここがこうなるだろ。それを更にこうすればはい、これで終了」

俺は兄貴の分かりやすい解説を聞きながら、今でも何度となく思い出すあの日の記憶をまた回想したなんという矛盾だろう。たった今、俺の目の前で淡々と問題を教えている人物の死を回想するなんて。何度もこの経験を繰り返した今でも自分の頭を疑うレベルの矛盾だ。

兄貴は人生最大の正念場を終えた帰り道の横断歩道を渡っていた時、暴走車に轢かれて呆気なくこの世を去ってしまった。即死だったらしく、事故を目の当たりにした人が救急車を呼んだものの既に手遅れだったようだ。だからきっと遺体も酷く凄惨な状態になっていたのだろう。流石に俺は変わり果てた兄貴に会わせては貰えなかった。だから俺の中での兄貴のイメージは、生きていた頃のままだ。

そして俺はやがて、そのイメージをそのままホログラムで映し出したような若者に出会った。場所はこの教室。俺が高校に入ってすぐの時だった。忘れ物をしたために夜の教室にやってきて、モノクロの兄貴に遭遇した。初め見た時はまず最初に自分の目を疑い、次に兄貴が話しかけてきたので耳を疑い、死んでから時間は確かに進んでいるはずなのに全く変化していない兄貴の姿に、最後には頭と神経を疑った。ショックで遂におかしくなってしまったんじゃないかと思った。しかし白黒になった兄貴は俺の人生を左右するような重要なことをしようとはせず、『分かんない問題とかある?』と混乱する俺を無視して単刀直入に尋ねてきた。俺はその様子を見て、幻覚ならもう少しこちらに干渉してくるものだろう、と思ってとりあえず本物だとしておくことにしたのだ。いや、幽霊なのだから本物というのは少し不適当だろうか。まあ、でも、普通の生活を続けられているので、幻覚とか気の所為だとか言って無視するのも筋違いというものだろう。

それにしても、と相変わらず当たり前のように論理を展開する兄貴を上目遣いで見ながら思う。

どうして死んでもなお、兄貴は俺の前に現れたのだろう。

そしてどうしてこの学校、即ち俺の通う高校に留まって俺の勉強を手伝ってくれるのだろう。

俺の高校は正直に言って偏差値がとても低い。そりゃあそうだ。俺はあの日から頑張ることが無意味にしか思えなくなったのだ。だから、勉強なんて申し訳程度にしかしなかった。というか、別にわざわざ受験で挑戦なんてしなくていいと思っていた。上位校願望もなかった。だから当然、努力せずに自分のレベルに合った学校に入った。

そんな生温い日々を送りながら、それでもふと兄貴のことを思い出すと少し胸が痛くなった。きっと失望されただろうな、と冷たい目でこちらを見る兄貴を想像して気分がほんの少し沈むことも少なくなかった。

それでも、頑張ることはできなかった。どうしても、かつての兄貴のように、何もかも無駄になってしまう未来しか見えなかった。

端的に言えば、死というものがとにかく怖いのだ。

死は必ず誰にでも訪れる。それは当たり前のことだ。でも怖いものは怖い。人が積み上げてきたものを、ある日突然あっという間に容赦なく闇に葬ってしまう死が、本当に恐ろしい。あの日兄貴の全てをなかったことにした、死という絶対的な終焉が。

死はその人の存在そのものを消してしまう代わりに、残された人々に虚無をもたらす。俺にもその虚無を感じることがあった。『ない』が『ある』なんておかしい表現かもしれない。だが、本当にそうなのだ。例えるならば、ドーナツの穴のようなものだ。ドーナツには穴がある。つまり『ない』が『ある』のだ。俺の感じた『ない』を挙げるなら、例えば、兄貴とよくやっていた二人用のゲームに兄貴の代わりに姉貴が相手として参加してくれたが、彼女はゲームがそこまで得意ではないのですぐに自滅してしまい、俺に謝ってばかりで何だか余計に虚しくなったこと。いつも半分だったおやつが、完全無欠な状態で並べられて無性に悲しくなったこと死がもたらす影響というのは予想以上に大きい。

だから、いつ奪われるか分からない何かを手にしたくないと思ってしまう。

そんな俺が情けない。変わりたいけれど、そう簡単に人は変われるものではない。いつまでも変わることができずに、生温い羊水に浸って安全地帯にいる俺にどうして兄貴は会いに来てくれたのだろう。見損なったとか思わないのだろうか。そして、俺みたいな出来の悪い弟なんかほっといて、念願の大学に行ってみたいとか思わないのだろうか。

行けない訳はないはずなのだ。兄貴は自らのことを地縛霊ではなく、ただの浮遊霊だと言っていたのだから。それなのに彼は、大学にも、更には俺の家にすら行こうとはせず、俺の学校に留まり続け、今ではこうして時々特別授業をしているせっかく他人には見えない身体になれたのだから、俺のことなんか気にせず自由に暮らせばいいのに理由は知らないが、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

そうだ。そのことをちゃんと言って、謝らなくては。そうしないと、兄貴の死後の時間まで浮かばれなくなってしまう。せっかく全てのしがらみから解放されたのだから、せめて死後の世界では自分の思うように過ごしていて欲しいのだ。

そういえばさ」

「何?」

なんで、俺にこんなことしてくれんの?」

何かしらのグラフを描いていた兄貴の手が、一瞬動きを止めた。しかし、その手はすぐにまた滑らかな動きをし始める。

「どうしてそういうこと訊くんだよ。俺がやりたくてやってるだけなんだから、お前は何も疑問に思わなくていいんだよ。それに幽霊って、結構暇だし」

「暇なら、第一志望の大学にでも行ってみればいいじゃん。兄貴、あそこで勉強したかったんじゃないの?それに、家にも顔出したことないし。家族の様子とか気になんないの?」

なんと言って伝えればいいのか分からずはっきりしない口調で矢継ぎ早に提案する俺に、兄貴は少し間を置いてから答えた。

やっぱり、気にしてるんだ俺が死んでから努力出来なくなって失望されたんじゃないかとか、俺の時間を拘束していて迷惑に思われてるんじゃないかとか本当はこんなことしたくないって思われてるんじゃないか、とか」

兄貴は沈黙を静かに破るように、穏やかな声で俺の思っていることを当てた。言いたいことがバレてしまったので、俺は今度こそ包み隠さずにストレートに言葉を紡ぎ出した。

「だっておかしいだろ。『このままじゃいけない』って言って、必死に勉強して、人とは比べ物にならないくらい辛い思いして、やっとその努力が報われたっていうのにあんなことになってあんまりな人生じゃんか。でも、死んだ後なら大学なんて入り放題だろ。お金がなくて行けなかったけど、いつか行きたいって言ってた海外にだって行ける。もう生きてた頃のことになんて縛られなくたっていいんだよ。何せ自由なんだから俺のことは心配しないでいいよ、兄貴。自分の悪い癖は、自分でなんとかする。それに俺の人生、多分兄貴より長くなるだろうしさ。生きてるうちに色々やれるよ、きっとだから、地縛霊になんてならなくていいんだ。わざわざ、何かに縛られるような真似はしないでいいんだよ。俺は兄貴が自分のやりたいようにやってくれれば、それでいい。というかそれがいい」

俺は胸中を一気に出し切ると、なんだか気まずくなって黙り込み、誤魔化すように問題を解き続けた。俺の吐き出した言葉をリフレインしてその意味をひとつずつ吟味しているのか、しばしの沈黙を挟んでから、兄貴は次々に答えが導き出されていく問題の群れを眺めながら躊躇いがちに口を開いた。

ここにいるのは、自由だからなんだよ」

無我夢中で動かしていた俺のシャーペンがピタリと静止した。

え?」

顔を上げると、今度は兄貴が何かを誤魔化すように、赤いボールペンを持って俺が解いた問題の正誤判定をし始めた。勢いで答えを出したはいいものの、兄貴がそこに書き加えるのはチェックの印がほとんどだった。

兄貴はまるで丸つけの間口が寂しいからといってなんでもない雑談をするかのように、俺の訴えに答えていく。

「ほら、地縛霊って、強い未練があるからとある場所に自縛する訳だろ。でも俺にはそこまで強い未練はなかった。確かに渇望していた第一志望の大学に一度も足を踏み入れることなく死んだのは残念だったし多少の未練はあったけどまあ、自分なりに納得できたらしいんだ。だから、こうして何かに自縛することなくごく普通の無害な浮遊霊として存在しているって訳」

兄貴は全ての問題に丸つけをすると、今度は間違えた問題に解説を書き込む作業に移った。俺はただその作業を見守りながら、彼の話を黙って聞いている。

「浮遊霊って、本当に自分を束縛するものがないんだよな。だから、自由は自由なんだけど、何となく何かしらの繋がりを持ちたくなるんだよ。地縛霊ほどじゃないけど。でも、その繋がりを求める対象は霊によって多種多様で、例えば家だったり、誰か特定の人に憑いたり、現代風のやつだとSNSに執着してるのもいたかなで、その執着の矛先が、俺の場合はこの学校とお前だったってだけ。そこそこ自由だからこそ、こうして生きていた頃の世界に自分自身を存在させようとするんだよまあ、気分の問題だけど」

相も変わらず赤いボールペンは、間髪入れず忙しなくプリントの上を走っている。

「つまり俺がここに留まっているのは、あくまで俺の希望だってこと。だから心配は無用だよ。それに、生きてる時は学歴とかも必要だけど、もう今となっては特に要らないからなぁ」

苦労の連続だった受験期を回顧しているのか、兄貴は目を細めて苦笑いした。俺はその切なげにも見える顔を見て、反射的にこう質問した。

じゃあ、後悔してる?」

「え?」

兄貴が予想外の質問に二回ほど瞬きした。俺はもう一度、詳しくして言い直した。

「何もかも理不尽になかったことにされて死ぬ気で努力を注いだこと、後悔してる?」

分からない所を質問する時より真面目さ二割増の俺の顔を見て、兄貴はちょっと戸惑ったように見えた。しかし、彼はすぐに首を横に振った。

「してない。納得できる死に方する為に、頑張ってきたようなものだから。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、生きるってことは、運命に死に方を決められる工程みたいなものなんだと思う。言い換えれば、俺は、自分が死ぬ時、地縛霊にならないように生きようとしていたのかもしれない。それで今、こうして、俺は無事浮遊霊として自分のやりたいことをやれてるからまあ、及第点じゃないかな」

兄貴はそう語り、微笑した。月光が教室に降り注ぎ、その空間を優しく照らした。その光に当てられた兄貴の白黒の横顔が、妙にリアルで、手を伸ばせば触れそうなくらいだった。

死んでいるはずなのにある意味生きている兄貴。そして、生きているはずなのにある意味死んでいる俺。見事にあべこべだ。そして、俺と兄貴を隔てるものが何なのかは何となく分かった気がする。ただ、俺がそれを実現するのはかなり大変だろう。

「そっかなんか、ありがとう」

俺はまた問題を解き始めながらそれだけ言った。兄貴の方もまた、特に返事をすることもなく黙ってその様子を見守っている。

時計の針が進む無機質な音だけが、教室中にやけに大きく響いていた。

「あーやっと終わった

「お疲れ」

ヘトヘトになって机に突っ伏している俺に、兄貴がプリントを片付けながら労いの言葉をかけた。幽霊だから、どうやら体力も無尽蔵なようだ。

「こんな調子じゃ、俺、大学受験乗り切れねぇよ

そう弱音を吐くと、兄貴はどこからか『プリントで間違えた所』と書かれたノートを取り出して、俺に差し出した。

「まあ、悔いのないように頑張れ」

今まで色んな大人達に同じようなことを言われたけれど、これほど重みのある『悔いのないように』を聞いたのは初めてだった。

俺は手渡されたノートをちらりと見やった。

とりあえずこのノートを終わらせることから始めるか、と、少しだけ前向きになれた気がした。

荷物を整えると、教室の扉をゆっくりと開けた。兄貴は教室の外には滅多に出ないので、扉の前に立っている。

じゃあ、また来るわ」

「別にいいけど、ちょっとは自分で考えろよ」

そう釘を刺されてから見送られ、俺は慣れ親しんだ夜の廊下を歩いて家路についた。

地縛霊になるくらいなら、まだ、頑張る方がマシだと自分で自分を説得しながら。

弟が帰った後、兄は椅子に座って眠りの体勢をとった眠りとは言っても、いわゆる生物の睡眠とはまた別物だが。

彼は教室を見渡した。

学校という空間には、様々な生徒がいる。様々な教師がいる。そして、その数だけそれぞれ違った地縛霊と浮遊霊のボーダーラインが存在する。

彼がそこに留まる理由。

それは、弟が自らの納得できる生き方を見つけ、それを心の中にしっかりと持ちながら多くの人々とそこにある空間を共有する姿を見届けるためだ。

そして、彼の大学受験を陰からサポートするためでもある。

自分の納得のいく生き方を模索していれば、きっと、納得のいく人生の終焉を迎えることができるだろう勿論、その保証はない。しかし、迷っているくらいなら、恐らくその方がいい。

彼はそこまで思考を巡らせて、やっと完全な眠りについた。

彼のモノクロの身体は、月の淡い光と教室の薄暗い空間に馴染んで消えていった。

 

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